中国映画『胡同(フートン)』
2006年 07月 27日
■どうやら梅雨が明けるようだ。暑くなるのも嫌だが、梅雨にくらべればましというものである。逆に考えれば、鬱陶しい季節があるからこそ、秋の爽やかさが身にしみて感じられるのかもしれない。昔の人は楽あれば苦あり、苦あれば楽あり、といった。山あり谷ありも同じことで、苦しい時をへたあとにこそ、至上の喜びもあるのだろう。
■久しぶりに中国映画『胡同(フートン)』を見た。渋谷の文化村の映画館で。あの建物は「ハイクラス向け」に作られたのかどうか、あまりお金に不自由しない層を対象にした催しものが多い。店内のパーラーなどもゆったりとした空間があるかわりに高めに設定されている。中でコーヒーを飲んだが800円ほどだった。ドトールなどでは180円でコーヒーが飲める時代、高いというべきだろう。ぼくは下町の雑多な雰囲気が好きだが、たまにはこういう空気にひたるのも悪くない。
■背後に東京随一の高級邸宅街の松濤があるので、小金持ちらしい中年婦人の姿が目立った。パーラーで2時間ほど仕事をして映画館に。例によってカミサンと一緒。フートンとは北京に古くからある路地のことである。ここに住むある一家の「父と子」の姿を北京オリンピックに向けて大きく変貌する時代のうねりの中に浮き彫りにする。
画家である父親は文革のとき、密告にあい6年もの間、強制労働をさせられる。ようやく帰宅をゆるされ北京のフートンの一角にある昔ながらの古い家に帰ると、すでに小学生になった息子がいる。息子は幼いとき父がいなくなったので、このとき初めて父と「出会った」ようなものだった。
■父は強制労働先で右手の指を折られ、画家としてやっていくことができなくなっている。父は息子に期待をかけ、息子を画家にしようと決意。いたずら好き遊び好きの息子を徹底的に鍛え画家の修業をさせる。
そんな父に当然、息子は反発する。1976年と、1987年、そして1999年の三つの時期に焦点を絞って、父と息子の葛藤をたんたんと描いていく。母や息子の恋人、それに同じフートンに住む、父が強制労働にいくきっかけをつくった男の人生などを点綴しながら、切れそうで切れない家族の絆を描いていく。
■ハリウッド映画やハリウッド映画の影響を強く受けた韓国映画ともちがう、いかにも中国映画らしい作品で、素直に感動できた。
沿岸都市部に限ってだが、中国も変わったな、とあらためて思う。特に文革などを知らない若者の変化は激しく、彼等は日本の若者らとあまり変わらない生活意識をもっているようだ。
彼等が人口の大部分を占めるようになったとき、世界はどう変貌しているのか。映画を見ながら、そんなことまで考えた。
同時に、古い情緒ある町並みがブルドーザーで壊されていく風景を見ると、こういう方向にすべてが流れていってしまっていいのかな、とも思った。