コラム


by katorishu
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 真珠湾攻撃のドキュメントフィルム

 8月4日(金)
■図書館で仕事をしようと思い、資料と携帯パソコンをいれた重い鞄をもっていったのだが、資料をとりだしたとき、メガネを忘れたことに気づいた。老眼鏡である。乱視と近視もはいっているもので、メガネがないと仕事にならない。裸眼でも文字を読めることは読めるが、疲れるので長続きしない。そうでなくとも、職業病の眼精疲労という「持病」をかかえているので、仕事はあきらめた。自宅まで徒歩10分ほどでもどることも出来るのだが、あらためて戻った出直す気になれない。例によって、常連の「お客」がいて、ビデオで映画を見ている。図書館が重要な生活の場になっているようだ。それはそれで結構なことだと思う。図書館は知識の宝庫であるし、想像力を刺激される。もっと多くの人が図書館に足を運ぶようになるといいのだが。

■雑誌や週刊誌などを拾い読み、ついでにDVDを携帯パソコンにいれ「真珠湾攻撃」のドキュメンタリーを見た。アメリカ側で撮影したカラーフィルムのはいっていた。日本の零戦の奇襲の模様を撮っていたが、その中にアメリカ人の一人が零戦に向かって小銃を撃っているシーンがあった。
 アメリカは日本の外交電報を傍受しており、日本政府の動きをかなりの程度知っていたはずなのだが、緊迫した両国関係のなか、アメリカ海軍の呑気さは、ちょっと理解に苦しむ。

■真珠湾攻撃の1時間50分前、日本軍はマレー半島のコタバルに上陸していた。米英に経済封鎖され追いつめられていたにせよ、資源の豊富なアメリカを奇襲するなど、日本の指導層はまったく愚かなことをしたものだ。
 太平洋戦争をめぐっては、いろいろな見方があり、単純に白黒をいえないが、真珠湾の奇襲の大成功が、その後、「勝てる」という幻想をふりまいたことは否定できない。戦争をはじめるのはそう難しいことではないが、終わらせるのは大変難しい。初戦の大勝利が終戦を送らせる遠因になった、とぼくは思っている。

■攻撃されたアメリカ人としても、中途半端に終わらせるものかという復讐心に燃えていただろう。そのため、戦争は長びき、失わなくてもいい多くの命が失われた。
 ところでコタバルといえば、7,8年前であったかICU国際基督教大学の学生寮でインタビュー取材をした中国系のマレーシア人の女子大生がコタバルの出身だった。彼女は日本の大学を卒業したらコタバルへ帰ると話していたが、コタバルと聞いて「日本軍が第二次大戦で口火をきって上陸した場所ですね」と質問すると、彼女は「よく知ってますね」と驚いた顔をしていた。多少とも昭和史を勉強しているので、知っていたのだが。

■コタバルに上陸したのは「マレーの虎」といわれた山下奉文大将ひきいる南方派遣軍だった。山下大将は東條首相のライバルで、戦後、BC級戦犯として裁かれ絞首刑にされた。この裁判で通訳をした日本人について書いたことがあるので、この裁判がアメリカ側の復讐裁判であることも知っていた。この裁判に関わったアメリカ人弁護士が、この裁判でのアメリカ側のやり方に憤慨し、裁判を批判する本を書いた。アメリカでは出版されたが、この本は日本ではなかなか出版されなかった。もちろん、アメリカ占領軍が不許可にしたのである。

■占領当時、アメリカ軍は自分たちに都合の悪いことは徹底的に国民の目から隠そうとした。東京裁判に新聞等が触れることも禁じた。「言論の自由」を標榜するアメリカが日本で徹底的な検閲政策をしたいたことを、日本人は知っておくべきだろう。
 今に続く「アメリカ従属」は占領政策のなかで土壌がつくられ、今に引き継いでいる。日本のアメリカ化は大成功で、現在の日本文化の半分は「植民地文化」といっても過言ではない。

■ところで、コタバル出身の女子大生を取材した当時、マレーシア政府の「ルックジャパン」つまり日本を見習えという政策などもあり、マレーシアの対日感情は良好だった。中国人の学生へのインタビューでは、こうはいかない。
 もっとも、同じ頃、上海からきた中国人女性にインタビュー取材をしたが、彼女は普通の中国人とはちょっと違っていた。彼女は日本人男性と結婚し、中華料理屋などに料理を調達する仕事をいていた。案外、率直に語ってくれたので驚いたのだが、彼女は日本に来る前、公安部に勤めていた。当時、経営が楽でないらしく、いつまで会社がもつかと話していたが、その後、どうなったろうか。
 中国をよく知っている人がぼくのところに電話をしてきた、きみが書いた上海からきた中国女性の話、あそこまで書いて大丈夫なのか、彼女の身に危険は及ばないのか……と危惧していた。
 当時、日中関係は比較的良好であり、自由に話せる空気が出来ていたのだろう。その後、彼女はどうしているだろうか。時間があれば、話を聞いてみたいものである。残念ながら、当時の取材ノート類は散逸してしまい、連絡のとりようもないのだが。
by katorishu | 2006-08-04 23:21