赤字が常識の舞台でいいのか
2006年 08月 12日
■エイズについてのミュージカルの打ち合わせ。このプロジェクトが実現可能かどうかを含めた話し合い。今の社会、何かことをなすのに必要なのはオカネである。これがなくては何も動かない。残念ながら。公演のために、関係者が赤字負担をするのはかんばしくないと申し上げる。オカネと時間をつかって見にきてくれる人に満足をあたえるような、質的に高く感動的な作にして、とにかく「黒字」にすることが大事である。
舞台関係者の多くは「芝居(ミュージカルもふくめ)は赤字が当然」と思っているようだが、これでは「プロ」の仕事とはいえないのではないか。いうは易く、実現するは難しであるが。むずかしい問題である。
■井の頭線の東松原駅近くの小さな劇場がある。ここでレクラム舎の30周年記念の公演があり、見に行った。主催の一功氏の作・出演の『強行突破』。銀行強盗をした3人の男がひたすら逃げる物語だ。リアリズム演劇ではなく、多分に実験的に作品。ひとつの試みである、未完成という印象を受けた。一功氏本人が脚本を書いたとき、読ませてもらった。これを舞台でやるのは、なかなかむずかしい、映像むき……と話したと記憶している。
逆に、舞台のどう再現するか、興味深く拝見した。試みを評価したい。
■終わって近くの居酒屋で、関係者と軽く飲みながら歓談。脚本家、テレビ演出家等々と意見交換。組織に属している人は別にして、多くの人がオカネのことで悩みをかかえている。間もなく40になる役者・演出家は、建築現場で肉体労働で生計をささえているが、肉体的にかなりきつくなっていると話していた。文化にあまり価値をおかない社会なので、フリー受難の時代が続く。カネに苦労のない人や政治家、権力者などは、まず小劇場などに足を運ばない。以前は、ドラマ関係者をよく劇場で見かけたものだが、彼等もあまり足を運ばなくなった。本日やってきた旧知のテレビ・ラジオ関係者は例外に数えられるだろう。かくて、おしきせの「ブンカ」がはやり、金太郎飴のような考え、感じ方をする人間が大量生産される。こういう社会にあまりアイデンティティを感じない。