映画「東京裁判」の重苦しさ
2006年 08月 14日
■ケーブルテレビの「ヒストリーチャンネル」で第二次大戦の「全史」を、24時間ぶっつづけで放送していた。始まりと終わりは見ておらず、断片的に時折見ていたので、どこで制作したのか不明だが、恐らくアメリカのテレビ会社によるものだろう。戦時の記録フィルムとアメリカの戦史研究者へのインタビューをはさみつつ、ナチスとの戦いを軸にした欧州戦線と、日米戦争を時間軸にそって構成したものである。
■ずっと見ていたわけではないが、睡眠中をのぞき在宅中は、ずっとつけっぱなしにしていた。これでもか、これでもかという殺戮シーンの連続に、気分が悪くなった。同時に、人類は根っからの「戦争好き」と改めて思わずにいられない。
第一次世界大戦で膨大な死者をだし、絶対に戦争をしてはいけない、と関係国の指導者も国民も思ったはずなのに、またも同じような愚を犯す。
■第二次大戦では原爆もつかわれ、先の大戦より更に膨大な死者をだし、多くの都市が壊滅的打撃を受けた。しかし、この61年間、世界から戦争がなくなることはなかった。
人はいつもどこかで戦争をしてきたし、今も戦争をしている。戦争をしないまでも、戦争に備えて着々と軍備を拡張し整えている国が圧倒的多数をしめている。
最近は、「対テロ戦争」という新しい形の戦争がうまれたし、冷戦終結後、これで平和がくるという人類の期待は大きく裏切られつつある。世界はあらたな「帝国主義戦争の時代」にはいったという指摘もある。多くの国が生き残りのため、天然資源の獲得競争に走るにちがいなく、利害がぶつかれば力による解決策がとられる可能性が強い。これはもう戦争である。
■外出から帰ると、同じヒストリーチャンネルで「東京裁判」の映画をやっていた。この裁判は勝者により敗者への「復讐裁判」の性格をもち、「事後法」で裁くなど国際法からみて問題の多い裁判である。実質的に日本を軍国主義化し、戦争へと引っ張っていた軍部の参謀クラスが被告として一人もあげられていないのも、奇妙なことである。
「共同謀議」などという概念をつくりあげ、裁こうとした趣旨にそもそも問題があった。なにしろ「勝てば官軍」なので、アメリカの主張通りに裁判は進行し、非占領国の日本としては受け容れざるを得なかった。
戦争責任の問題については、情報公開などで続々と資料がでてきているので、「国家的プロジェクト」で研究を深めることが必要かもしれない。
■歴史研究者やジャーナリストなどが個々に研究し、それなりの成果をあげているが、ごく一部の人の目にしか触れていない。図書館等にいけば、誰でも読むことが出来るのだが、研究者予備軍か、特別に興味をもっている人以外、手にとりもしない。
「国家的プロジェクト」としてやれば、国民の間にいろいろな価値観が混在しており、まとまらず、無理にまとめようとすれば、最大公約数的なものになってしまうかもしれない。
それでもいいと、ぼくは思っている。すくなくとも、マスメディアはこの問題をとりあげるし、国民の間に賛否両論がうずまき、関心をよびおこすだろう。そうすることで、あの時代についての「基礎知識」を多くの国民が獲得するのではないか。
「昭和史」に興味をもちノンフィクションなどを書いている者として、現在の日本国民の多くが、昭和前期についてあまりに貧しい知識しかもっていないことに愕然とする。価値判断をするには、判断を下す資料、情報がなくてはならない。それがあまりに少なく不十分なので、どうしても「感情論」になる。
学校教育で大正から昭和前期についての内外情勢について、教えていないのも問題である。戦争体験者が日々少なくなっている現在、マイナスの体験をプラスに活かすためにも、戦争の体験となぜこういう事態になってしまったのか、当時の欧米列強の動きなども視野にいれて、独自の「戦争責任論」を残すべきだろう。歴史は、常に書き直されるものであるのだから。
■ただいま14日午前5時近く。ヒストリーチャンネルで「東京裁判」を見終わった。3時間以上におよぶ長編ドキュメント映画で、劇場で見たのもふくめ見るのはこれで3度目だが、ずしりと重いものがあり、しばし言葉もない。