コラム


by katorishu
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デルとの不毛なやりとり 

 9月15日(金)
■本日もデルとのやりとりに長時間を要す。結論として、失われたデータは取り戻せないということだ。ファンの修理に出す前にはパソコンは正常に動き、ファンで暖まると停止するほかは故障でもなんでもなかった。ところが、デル側の手配した運送業者が運んでいき、先方の修理工場でファンを取り替えたあと、検査をしてみると、ハードディスクが故障しており、新しいものと取り替えないといけないとのこと。

■中のデータが失われては困るので、ハードディスクを一端もどしてもらい、データをとたあと送り返す……ということで、カバーとともにハードディスクが送り返されてきた。ところが起動できないのである。テクニカル・サポートの担当者と何度もやりとりをした。
 新しいハードディスクのパーツだけが何の説明もなしに送られてきたのだった。しかも、デルの本体ではなく、どうも別会社から。最初、なにかの間違いで誤配されたのかと思ったほどだ。詳細ははぶくが、作業だけで2万5000円もとるのだから、ソフトも組み込んでもどってくるのが普通だが、これは珍しいケースだからと、僕自身がパソコンを開けてハードディスクのパーツを組み込む作業をしなければならなかった。
 3年間分の写真データとメールがすべて失われてしまい、新しいハードディスクは最初からソフト類をすべて再インストールしなければならない。なんとかソフトをいれたものの、インターネットにつながらない。そのため、メールのやりとりもできない。

■最初のやりとりに出てきたのは、外国人で日本語が流暢ではなかった。通じているのかなと危惧をしたほどだ。彼が念のためハードディスクの内容が失われる可能性もあるので、バックアップをとってくれと一言でもいってくれたら、まだ救われたのに。本日のやりとりに出てきたのは日本人。ぼくはいった。「車にたとえると、それまで正常にエンジンが働き動いていた車のファンが壊れたので修理にだしたところ、ファンを変え、エンジンテストをしてみると、エンジンが壊れていた」といっているようなものではないか。修理工場に責任はありません、といってすむ問題だろうか。この例を出すと、応対にでた日本人は「そうですね」といっていた。
 でも、修理マニュアルがあって、補償などはいっさいできないとのこと。泣き寝入りせよということである。ハードディスクから内容を取り出す専門業者にもっていけば、中味を取り出せるケースがある。10万、20万と費用をとられる。その試みぐらいやってくれてもいいのにと、いったが、「出来かねる」との答え。

■現場で応対する人は、それしかいえないのだろうが。その人の口からぽろっと漏れたが、修理の電話に応対する外国人は日本ではなく、外国にいて電話の応対に出ているようだ。
 ボーダレス時代とはいえ、そんなことまでしてデルは金儲けにいそしみたいのだろうか。
 データが失われ、いろいろなパーツを買わされ新しいハードディスクを組み込んだパソコンでインターネットもメールのやりとりも出来ない。踏んだり蹴ったりである。また月曜日にテクニカル・センターとやりとりをしつつ修復をはかるしかない。相手は、こちらが疲れて諦めることを狙っているのだと思う。
「アメリカなんかだと、裁判などになり莫大な費用を要求されますよ」というと、相手は黙ってしまった。

■さて、今後どうするか。こんなことに関わっていると、ほかのことができない。失われたデータは諦め忘れるしかないのか。以前はバイオのパソコンで7万円かけてハードディスクをとりかえてもらったのに、数ヶ月で壊れてしまった。腹が立って、捨ててしまった。
 で、日本製ではなく、アメリカ製(といっても中国あたりで作っているのだろうが)にしてみたら、やっぱりダメだ。長くパソコンをいじっていると、この類のことが多いらしい。今度は韓国か台湾製、いっそインド製をつかってみようか。

■ぼくがパソコンを初めて買ったのは1995年だった。当時はウインドウズ95。そのころから急速にパソコンが普及し、さらに携帯電話も安価になり、人と人とのコミュニュケーションの形がかわった。便利さ快適さを求め、人々は殺到した。
 しかし、「便利」で「効率」が良いなどといって、そればかり追っていると、今に大きなしっぺがえしを食うことになると予言しておく。
 文明が滅びるのは、その文明の「強み」が原因である場合が多い。企業でもそうで、その企業が発展する原動力になったものが、その企業を滅ぼす要因になる。
 デジタル化がいわれ、インターネットが社会を変えるなどといわれているが、それで果たして人は幸福になっているのだろうか。

■こんなブログ上で、こういうことをいうのは矛盾しているかもしれないが、振り返って見ると、インターネットなどなどなかった時代のほうが、多くの人が幸福に生きていたように思う。
 便利さ効率化は、人を幸福にしない。新幹線ができ東京・大阪間の移動時間が3分の1程度に短縮された。つまり3倍早くなったのだが、それで人は3倍幸せになったかといえば、そんなことはない。
 パソコンやゲーム機で「ゲーム脳」になった人の脳波は、覚醒剤中毒の人の脳波と同じだと、『脳内汚染』の著者で脳の専門家である岡田氏が書いていた。
 今さら、インターネットを廃止するわけにいかず、ぼく自身使いつづける予定だが、距離をおき、不信感を失わずに対処することが大事だと思う。
 効くところでは携帯のネットショップで何十万もするバッグなどを買ってしまう人がいるそうだ。買うこと、買えること自体に、愉悦を覚えているのだろう。こういう人をコマーシャル汚染人間という。
by katorishu | 2006-09-16 00:57