創作の根っこは人間への飽くなき興味
2006年 09月 16日
■シナリオ教室で3時間の講義。生徒に前もってあたえた課題シナリオの講評を中心にすすめる。ものを創るとはどういうことか、その道のプロになるには、どうしたらいいか。いうまでもなく、才能と日々の隠れた努力である。むしろ努力と意欲が大事かもしれない。とにかく、努力、努力、努力。それはスポーツ界でプロになるのと同じである。
どんなに才能があっても、努力なしでプロ野球の名選手になった人はいない。少人数なので、相互のコミュニュケーションができ、月一回ぐらいはぼく自身にとっても心身の訓練になる。子供のころ、人前で口をきくのが苦手であったが、最近は面の皮が厚くなったのか、1時間しゃべってくれといわれれば、しゃべる。2時間でもそれなりの内容を即興でもしゃべることができる。聞く人が興味をもっているかどうか、観察しながら臨機応変に話を買えたり、いろいろ余裕をもって話せるようになった。
喜んでいいのか悲しんでいいのかわからない。なにかを「出来る」ようになることによって失われるものもあるのである。
■おずおず、もじもじ……というマイナスの姿勢から、見えてくるものもある。これは一般論で、例外があるが、よくしゃべる人は案外、紋切り型の思考の場合が多い。訥弁の人はどうしても考え考えしゃべるるので、深くなる……と思えるかもしれないが、必ずしもそうではない。そこが人間存在の面白いところだ。
訥弁で深い思考の出来る人もいれば、能弁で深い思考のできる人もいる。その反対も多い。ある分野だけ、深い思考ができるが、社会一般については紋切り型、類型的な意見しか吐けない人も多い。
■本日も人間に対する飽くなき興味が物を創ることの根底であるといったことを話した。このところ、舞台を見て欲しいという案内状が毎日のように届く。申し訳ないが、欠席することが多い。全部つきあっていたら、自分の時間がなくなるし。毎度欠席するのに、ずっと送ってくださる某伝統ある劇団の公演は、今回、宮沢賢治の作である。なんとか都合をつけて、と思ったが、むずかしいようだ。芝居を見るのは週に一回が限度です。これを読んだ関係者の方、そんな事情ですので、ご寛恕のほどを。寛恕と今記して、過日、絵はがきを出した人に「寛恕」の「恕」の字を「如」と記してしまったことに気づく。
これでよかったかなと思いつつ記したのだが、受け取ったひとは「文筆家なのに字を知らないな」と思われたかもしれない。慎重のようで粗忽。小心でいて大胆。矛盾したものをどうも過剰にもっているようです。人は多かれ少なかれ矛盾の塊なのですが。