異才にして鬼才・イッセー尾形
2006年 09月 17日
■午前中にいったん起き、うどんを食べたあと急に眠くなったので、布団の中で犯罪関係の本を読んでいるうちに、眠ってしまう。カミサンは横浜での「川柳大学」の例会に。午後、NHKの教育テレビでイッセー・尾形の一人芝居の舞台中継の再放送をやっていた。そのまま見てもよかったのだが、録画してDVDに落としてから、それと携帯パソコンをもって行きつけの珈琲店にいき、見た。
じつはイッセー・尾形の生の舞台を見ていない。何度か見ているが、いずれもテレビ中継だった。これは「邪道」なのだが、機会がなかった。
■テレビ中継でもイッセー・尾形の独特の個性は十分感じ取れた。建設工事現場で仕事をしていたときの体験などが基礎になっているようだ。一人芝居をはじめて25年、着々と自分の地歩を築いていた、ユニークな俳優である。
『論座』での「ターニングポイント」のインタビューの第一回はイッセー・尾形でもいいのでは、と思ったことだった。昭和天皇をロシア人のアレクサンドル・ソクーロフが描いた映画『太陽』で、天皇を演じたイッセー・尾形の演技は、彼以外では考えられないほど、はまり役だった。異才というか、鬼才という言葉が相応しいかもしれない。
近々、編集者にあったら、イッセー・尾形のことを話そうと思っている。(Tさん、もしかして、このブログを読んでいるかもしれませんね)
■集英社新書の最新刊『グーグル・アマゾン化する社会』(森健著)を近くの書店で買い、読み始めたが、すこぶる面白い。呑気に楽しめるというのではなく、怖い社会が到来したと実感する。ウエブが産業革命が起こったときなどと同様、社会を根底から変えていくような気がする。恐らく、多くの人間は、それ以前と比べ決して「幸福」になりはしないだろう。一部の人間に富や権力が集中し、新たな「デジタル貴族社会」がやってくるかもしれない。いろいろな仕組みを作り出し仕掛ける一部少数派と、仕掛けられその舞台で踊るしかない多くの大衆とに分離されていく恐れもある。
■物書きとして、この変化の行く末を冷静に観察し、記録として残したいものだ。本日はついでに『パーソナリティ生涯』(岡田尊司著・PHP新書)も買った。『脳内汚染』の著者である。
脳の機能にこれほど焦点があたった時はない。「愛をむさぼる人々」「賞賛だけが欲しい人」「主人公を演じる人々」「悪を生き甲斐にする人々」「頭の中で生きている人々」と目次の文字をアットランダムに列挙するだけで、面白そうな本であると思っていただけると思います。
ぼくなど面の皮が厚くなっているので、相手が誰であろうとコミュニュケーションができ、ある雰囲気をつくりだしつつ情報交換ができるのだが、そういうコミュニュケーション能力が不得手であったり、出来ない人が増えているようだ。
■コミュニュケーション能力が未熟だと、いらぬ摩擦を生じるし、社会性も育たず、いわゆる「キレル」人間になりやすい。この問題は重要なのだが、公教育の現場でとりあげられているのか、どうか。
これも恐らく「脳内汚染」が深く関係しているにちがいない。
読みたい本、面白い本が多く、さらに見たい映画、見たいDVD、見たい芝居などが数多くあり、そちらに時間をさいていると、それだけで起きている時間のすべてが消費されてしまう。面白すぎることが、あふれている世の中というのも、ありがた迷惑である。