コラム


by katorishu
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若手研究者の定例研究会に門外漢として参加

 9月30日(土)
■ときには若い人や異分野の人と接触することは、脳の活性化のためにも必要である。本日は日本科学史学会生物史分科会に出席。東大の駒場キャンパスの14号館で行われた。10人前後が出席するこじんまりした集まりで、旧知の慶應の学生の奥村氏が「物活論の消息」という題で発表した。生物と無生物の領域確定の変遷をたどりつつ、思っていた以上にわかりやすく解説し、門外漢のぼくでもよくわかった。奥村氏は哲学を専攻していたが、生物学史の研究にかえた博覧強記の学生で、じつに本をよく読んでいる。肩まで届く長髪の持ち主で、24歳とはとても思えない落ち着いた姿勢で堂々と話す。将来を嘱望させる異色の青年だ。

■フランスの啓蒙思想から説き起こし、ディドロとダランベールの対話なども引用し、興味深い内容だった。
「すべての存在、したがって全ての種は互いに内部で循環しているのだ。……万物は流転している。……あらゆる動物は多かれ少なかれ人間であり、あらゆる鉱物は多かれ少なかれ植物であり、あらゆる植物は多かれ少なかれ動物である。自然には何一つ文明なものなはい」
 ディドロとの対話でダランベールがいった言葉。進化論の概念を導き出す「物活論」の先駆をなすものがディドロの論にはこめられているという。

■ディドロが万物に認める生物の徴候は、第一に感覚である。感覚するものは生きている。そして第二に運動である。運動とは刺激に対する「反応を示すこと」が、そのもっとも単純な形態である……といった論が展開され、こういった論は19世紀から20世紀の初めに生きたヘッケルに引き継がれていく。

■ヘッケルの生命学を要約すると、「物質は生命を備える。それは、親和力や栄養といった作用を説明するために導入された仮説」「生命の徴候は感覚と運動である。しかし、栄養は生殖といった作用も重視される」「ヘッケルの物活論は生命→物質→生命という循環構造」をもっているとのことだ。
 要するに、いっさいの生命現象を物理化学の法則に帰属させることが「物活論」の根本にあるようだ。奥村氏によると「物活論」の根底には啓蒙主義によるキリスト教批判であるという。

■ほとんどが20代、30代の若手研究者で、ぼくが日ごろ接している人たちとは違った「物事を本源的に根元的に考えよう」という姿勢をもち研究を深めようとしている人たちで、なるほどと思う意見も多かった。生物科学の専門家だけではなく、歴史学者、メダカの研究をしている漫画に詳しい「オタク」の趣のある医学博士、核の歴史を研究している人、3ヶ月前までフランスにいた人文系の研究者等々……。
 終わって食事をしながら歓談。さらに二次会にいき、アルコールをいれながら歓談、意見交換をした。時間があればヘッケルの大著『生命の起源』を読んでみたいと思った。古い翻訳しかないらしいが。
 違った分野の人達と接することで、それまでの物の見方や社会の見方に、違う視点をいれること。こういう転換期にこそ大事だと思った。月一回、駒場で定期的に開いているということで、彼らにとってもぼくのような物書きは逆に「新鮮な刺激」でもあるようだ。時間があれば、続けて参加したい。次回は「動物園の歴史」がテーマだという。
by katorishu | 2006-10-01 12:26