コラム


by katorishu
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ある葬儀に参列して

 10月12日(木)
■八王子の山田というところにある八王子斎場にいく。電車のつながりが悪く、午前8時半に品川の家を出たのに着いたのは10時半すぎ。2時間あまりもかかってしまった。昔、NHKの報道局の外国放送受信部(今は廃部)にいたとき、ロシア語班のキャップをしていた酒井一之さんの葬儀だった。戦前から戦中、戦後にかけて日・ソ・中の三国の狭間で「有為転変」の人生を送ったひとだ。

■ハルビン学院出の「日本人離れした」マスクをもった人で、若いころは女性にさぞもてもてであったろう。「国際的プレーボーイ」の典型であった。面倒見のいい人で、われわれ若い部員は「お父ちゃん」の愛称で呼んでいた。NHKが内幸町にあったころのことで、「報道のふきだまり」などと称された外国放送受信部には、じつにユニークな経歴の人が多かった。敗戦後の特殊が状況が作りだした職場といってもよいほどで、もう二度とああいう職場は生まれないだろう。NHKが渋谷に移るとき、この部は内幸町の古い建物に最後まで残った。ぼくもそこにいたので、あの界隈は懐かしい。

■酒井さんにはよく虎ノ門に続く田村町や新橋界隈の飲み屋に連れて行ってもらった。酒井さんは飲み代などを稼ぐために、よく部の片隅で技術文献の翻訳などをやっていた。今のような「管理社会」ではなく、まだ鷹揚なところ、良い意味の「いい加減さ」が残っていた。新橋駅前はまだ闇市の残滓のようなところがあって、駅前に迷路のような細い路地があり、両側に飲み屋がびっしり並んでいた。昭和40年代前半のことである。虎ノ門には「晩翠軒」という文学作品によく登場する中華料理屋などもあった。あの店の焼きそばは逸品だった。近くの霞ヶ関にある通産省の地下の食堂にときどき昼食を食べにいったが、当時は中央官庁でも、誰でもはいっていって食べることができた。NHKの食堂にも近くの会社の社員がよく食事をしにきていた。誰でもフリーパスで局内に入れたのである。その一点をとっても「悪い時代」ではない。

■「今は昔」で、昔のことを「よかった」などというと、年寄りの証拠といわれるが、まだ貧しさは至るところに残っていたものの、社会に「遊び」の要素があり、面白く活気のある時代であった。全共闘の学生たちが暴れまくっていた時代で、NHKの近くの日比谷公園では確か「全国全共闘結成大会」が機動隊のとりまくなか行われていた。ぼくはその日ヤジウマとして中にはいって見物していた。山本義隆議長が現れるという情報があり、もし現れれたら警視庁に逮捕されるともいわれていた。どんな人かこの目で見てみたかった。日比谷公会堂の前あたりで、赤いヘルメットに覆面をし長い竹をもった若者数十人が「第一軍団前へ」とかいってデモンストレーションをしていた。ヘルメットには「赤軍」と記されていた。ロシア革命の赤軍をまねた漫画的な光景で、思わず笑ってしまった。この若者たちがその後「連合赤軍」として大菩薩峠にこもり、総括と称して違いを殺しあったり、その分派はハイジャックをしたりして世の中をさわがせた。あとで「ああ、幼い顔をしたあの連中だったんだ」と思ったことだった。現在も平壌にいるハイジャック犯も、あの中にいたにちがいない。このころから、放送局などの警備が次第に厳しくなった。

■それから間もなく日比谷公園内にあった由緒ある雰囲気の松本楼が過激派の手で焼かれた。洋風の落ち着きある建物であったが、そのときも、ぼくは現場で建物が燃え落ちる様子を見ていた……。これからどういう世の中になっていくのだろう、と思う一方、早く作家にならなければと焦っていた。
 当時、アルバイトできていたI君が話していたことだが、デモがあると、それがどういうものであるか考えずにそのままあとをついていく……と話していた。恐ろしく好奇心旺盛な人で、その後、彼は大阪読売新聞の社会部員になった。虎ノ門や日比谷公園界隈でのさまざまな出来事が、月並みな表現を使えば「走馬燈」のように脳裏をよぎる。酒井さんの遺影を見ながらそんなことを思い出していた。酒井さんは享年86。拙作『もうひとつの昭和』にも登場願ったことがある。
 この本には、戦後の混乱期のハルビンで別れざるを得なかったロシア人妻との間だに生まれた息子のアレクセイ氏と、何十年後の時間をへて劇的な再会をはたすエピソードなども入っています。すでに絶版になった本ですが、興味のおありの方は図書館で読んでみてください。

■この葬儀、「友人葬」といわれていたのだが、会場に遅れてはいったところ、南無妙法蓮華教……の声、声、声。酒井さんはある時期から創価学会に加入し、創価大学のロシア科の設立に貢献した人で「名誉教授」であったから当然なのだが。創価学会方式の葬儀にはじめて参加したので、ちょっと驚いてしまった。NHK関係者7,8人と、酒井さんのご遺族をのぞく参列者は両手をあわせて声高らかに読経する。僧侶が座るところには、学会員の幹部なのか喪服姿の人が座って読経を先導する。これが創価学会かと思った……と記すにとどめよう。
 今や政府与党の公明党を支える大きな基盤で、本拠は信濃町と八王子にある。ところで、ぼくは八王子生まれの八王子育ちで、創価学会の施設がある一帯は、子供のころ、栗拾いや茸狩りなどにいったりして遊んだ場所だった。そのため、また別の感慨がわいた。

■山田駅近くの食堂で旧知の四人と昼食をとりながら、過ぎてきた時代と、これからをとりとめもなく話したことだった。四人のうち、二人は定年退職者で今は「悠々自適」の生活で、それぞれの趣味に生きている。一人は現役の解説委員。一方、ぼくは死ぬまで「現役」である。もっとも「現役作家」といっても、仕事の注文がなければ、「自称・作家」ということになってしまうが。あと2年で定年を迎えるという昔の遊び仲間の解説委員のT氏には、「いくつになっても、とにかく社会と関わりをもった仕事や、ボランティアをやったほうがいい」と帰りの電車のなかで話したりした。
 八王子にはまだ「実家」があり、立ち寄ることも考えたのだが、資料読みはじめいろいろとやらなければならないことがあるので、真っ直ぐ帰宅。寝不足なのでテレビを見ていると、そのまま2時間ほど眠ってしまった。

■北朝鮮の核実験は偽物説も出てきた。中国の動向が注目される。電車の中でモスクワ支局長でもあったT氏と話したのだが、「今の中国はあと10年しかもたない」ということで意見が一致した。拙作『北京の檻』にT氏は強い興味をしめしてくれた。「送るよ」というと「いや、買って読みますよ」と彼。書き手としては嬉しいことである。
by katorishu | 2006-10-13 00:08