コラム


by katorishu
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「個性尊重教育」の個性のなさ

 11月12日(日)
■昨日とはうってかわって秋晴れの好天。こんな日は外を歩かないといけない。知り合いのイラストレーターの子供が通う近くの小学校までまず足を運んだ。子供達がつくった紙細工や粘土細工、絵などのが廊下や教室、講堂などに展示されてあった。以前であったら、金賞や銀賞などが選ばれ、優劣が示され、金賞を受けた生徒は誇らしく思い、受けなかった多くの生徒は「さすが」と感嘆したりして、「よし、つぎは金賞をとってやる」とファイトを燃やす人もいるだろう。中には「……ちゃんが銀賞なのに、どうしてわしたしのがもらえないの」と嫉妬する人もいるかもしれない。

■金賞、銀賞をもらう作には、なるほどと思わせるものがあり、この生徒は勉強はできないけど、絵の才能があると、尊敬の念が生まれたりしたものだ。運動会の徒競走などでも同様である。普段はあまり勉強もできない地味で目立たない存在が、運動会の一日だけ「ヒーロー」になれることもあった。徒競走でいつも等外であったぼくなど、彼の走りに感嘆したものだ。音楽、体操、工作……等々、どんな生徒にも、ひとつぐらい取り柄があるものである。学校での評価の物差しはどうしても「テストの成績」となってしまうので、運動会や絵などの展示会などは、日ごろテストで良い成績をとれない生徒にとっては「晴れの舞台」でもあった。

■いつごろからか、運動会の徒競走で順位をつけることをやめてしまったという。走ってきて、みんな一緒に並んでゴールをすることも行われていたと聞いた。今も行っているのかどうどうか。文部科学省か日教組のどちらか、あるいは両者が共謀して、そんな「平等教育」を行っているのかどうか。まさか徒競走で並んでゴールなどというアホなことはやっていないと思うが、一等になったものに鉛筆をなどの景品をやることはなくなっているのだろう。ものが豊に出回っている時代、景品など必要はないかもしれないが、一位で走った人には、一位で走ったことに対する賞賛をあたえるのは当然だと思うのだが。

■本日の展示会でも優秀な作があったら、それを顕彰したほうがいいのに、と思った。しかし、見ていくうち待てよと思ってしまった。「悪しき平等主義教育」の「成果」なのか、抜きんでた作がないのである。それぞれが「個性的に」「自由に」発想してつくる……という指導をしているのかもしれないが、並べられている作品はすべて金太郎飴で、「同じ」なのである。子供は本来、大人ほど「既成概念」「先入観」にとらわれていないので、もっと素朴に自由な発想で描けるはずなのに、何百点もの「作品」を見て感じるのは、「似たり寄ったり」なのである。一点ぐらい破天荒なものがあってもいいのに、それがない。

■「平等」は大事であるが、個性を発揮する「表現」の分野での平等はいただけない。才能の優劣、努力の多寡が色濃く表れる分野である。優れた者、努力をした者には、それなりの顕彰をして、勇気をあたえる。それが個性を伸ばすことに通じる。
 もしかして教師の側に「優劣」を判断する能力がないのかな、とも思った。例外はあるだろうが、教師の質も低くなっていると聞く。どうでもいい会議や資料つくり、人間関係などで、教師としての能力を十分に発揮できない環境にあるのかもしれない。逆に、個性を発揮する教師がいては困るのかもしれない。

■教師の側にも「みんな同じ」という意識が働いているのだろうか。ぼくの周囲に小中高の教師がいないので、よくはわからないが。大学の教師なら知り合いに沢山いる。具体的に名前は出せないけれど、この分野ほど「玉石混淆」はない。ぼくの実感では、玉は1割ぐらいで石が5割ほど。あとの4割は「磨けば光る」のに、磨くことを忘れているか、磨き方を知らない。大学がこれだけ数多くできると、インフレ教官が生まれるのは致し方がないことかもしれないが、社会の文化レベルの低下は大学の教官のレベルの低下に反映されている。これだけ勉強しない大学生の多い国も、世界にちょっと例がないのではないか。勉強しなくても卒業できるシステムが問題である。知的に劣化している学生が多いので、必然的に教官の劣化もすすむ。これも亡国の兆しのひとつですね。
by katorishu | 2006-11-12 23:56