コラム


by katorishu
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昔はこんなテレビドラマが放送されていた

 11月18日(土)
■若手の研究者の集まりである生物学史学会の月例会にいく予定であったが、体調がすぐれないことと、仕事の関係で欠席してしまった。本日は先頃パリ留学からもどったフェリス女学院大学講師の加納由起子氏の日仏の比較文化についての発表で、彼女とは前々回話もしたし興味のある分野であったので参加したかったのだが。

■ところで、過日、脚本アーカイブズの準備室の当番のとき、関係者から寄贈されてきた脚本・台本を見ているうち、こんなテレビドラマ脚本にぶつかった。
 一千万人の劇場『おんまの国』というタイトルで、小幡欽治脚本、左幸子主演。どこのテレビ局で放送されたものか脚本に書いていないのでわからないが、冒頭、「韓国・京城、昭和35年」のスーパーがはいる。どうやら昭和35年に放送されたドラマらしい。

■舞台はソウル市内で、左幸子役の日本人は「金理髪店」の女店主。彼女は戦前、日本の大分県で生まれたが、朝鮮半島の親戚のところに養子としてもらわれ、終戦を迎える。養父はシベリアに抑留され消息しれず、養母は病死。彼女は旧植民地、韓国でミナシゴとして生きてきた。
 生活のため、理髪店を無許可で営業する。許可された理髪店より安い料金なので客はひきもきらない。すでに10年間続けていて、血のつながらないミナシゴを7,8人養っている。「南北戦争」(朝鮮戦争)で両親が殺され係累のない子供たちを、我が身のように考え善意から引き取って育てているのである。

■彼女の名は永沢テル。まだ朝鮮戦争の傷跡の残る貧しいソウルでほそぼそ生きてきたのだが、店が繁盛していることを不快に思った同業者からのたれ込みでソウルの警察に連行される。金秋恵という人の戸籍を買い、その人になりすまして生きてきたのだが、それが発覚してしまった。国籍がないことから、彼女は「密入国」として「北のスパイ」と疑われ逮捕されてしまう。必死に事情を話すのだが、証拠がないとして警察では聞いてもらえない。日本人というのも、当時のソウルでは大いにマイナス要素として働いた。

■彼女は身のあかしをたてるため大分県の市役所に戸籍を取り寄せてもらうが、やがて送られてきた戸籍謄本には、「戦時死亡公告により昭和25年×月×日除籍」と記されていた。「やっぱり、お前はスパイだ」といわれる。
「違います。わたしは永沢テルです」と懸命に主張するのだが、取り調べの係にいわれる。「われわれは身元不明の一人の人間の言葉よりも、国に機関を通じて正式に発行された公文書のほうを信頼する。こんなことは常識だ」
「これは間違っているんです。戦争が終わっても日本に帰らなかったもんだから死んだことにされたんです」
 と必死に主張するテル。ソウルで床屋を営業してきたのだった。
「永沢テルは私です。戸籍が間違っているんです。私は生きているんです。刑事さん、あんたは人間の言ったことよりも、そんな一枚の紙切れを信じるんですか。ええ、私は20年間、国籍がなかった。でも、私は私だってことを、誰よりもよく知っている。国籍はなくても、人間はちゃんといるんです。生きて働いているんです。」

■しかし、訴えはきかれずテルは「戸籍法違反により懲役1年」「無届け営業について禁固三ヶ月」の判決をくだされてしまう。そんな折、警察に取材の訪れた劉という新聞記者が、テルや子供たちの訴えを耳にし新聞記事にする。
《孤児を育てた日本婦人。国籍を疑われて懲役求刑。無常な判決。永沢テルさんを救おう》というキャンペーンをはった。
 新聞のキャンペーンのおかげで、テルは大統領命令で釈放。大統領は裁判のやりなおしを命じ、特例でテルは理髪店の営業許可を与えられた――。
 反日色の強い李承晩大統領が倒れ、朴大統領になったことで、対日政策がかわったのである。朴大統領はは日本の士官学校出身で、軍事クーデターで政権を獲得したのだが、テレビドラマはそのへんの背景については触れない。永沢テルという女性は実在の人物かもしれない。

■昭和30年代から40年代にかけては、こんなドラマが放送されていたのである。そのことに改めて驚いた。じっさい、当時は『わたしは貝になりたい』などBC級戦犯のやりきれない悲哀をえがいたドラマも放送されたが、こんなドラマが放送されたことは知らなかった。懸命に生きる庶民の息づかいが伝わってくる脚本である。小幡欽治氏は芸術座などで上演された「家庭劇」の脚本の名手で、「隣人戦争」などの佳作がある。
 韓国ロケなどを行ったユニークなドラマで、フィルム制作であった。現在、「韓流ブーム」にのって日韓合作ドラマがときたま作られるが、ほとんどは若い男女の恋愛模様である。それもいいのだが、南北分断の悲劇や、人間が生きる(サバイバルする)ことの辛さ、悲しさ、その周囲に派生する善意の人たちの勇気や暖かさなども描いて欲しいものだ。「過去」には学ぶべきことがいろいろとある。アーカイブの大事さを改めて認識したことだった。

■アーカイブに関して、こんなエピソードをひとつ紹介します。
 1853年はアメリカのペリー総督がはるばる太平洋をわたって江戸にやってきた年だが、そのとき“I supeak Ddutch!”(私は日本語が話せます)という言葉を発した日本人がいた。江戸幕府のオランダ語通訳堀達之助で、小さな舟からペリーの旗艦サスケハナ号のデッキに向かってそう叫んだ。これを聞いたペリーは自分のオランダ語通訳ポートマンをよび通訳させた。日本人とペリー総督との出会いに際して最初にかわさえた会話である。それがオランダ語で行われたのである。

■記録文書は歴史の証言でもある。アメリカ公文書館の正面には、二体の巨大な彫像がおかれており、そのひとつの台座に「過去の遺産は未来の収穫をもたらす種子である」と彫られているという。人にせよ国や企業、団体等々にせよ、作成、保管される文書群は「歴史的情報資源」であるのだが、そういう位置づけが、日本は先進国の中ではもっとも希薄である。

■1988年、フランスのミッテラン大統領はパリで開かれた「国際文書館評議会世界大会」で、次のような格調高い演説をした。
「すべての国のアーカイブズは過去の行為の軌跡を保存するものであり、同時に現在の問題をも照らし出してくれるものである。過去はそのままにしておくと消え去ってしまうから、記録を残す努力をはらわなければならない。記録を処分するかどうか、つまり生きてきた存在証明を残すかどうかは私たちの判断にかかっている。この存在証明は積み重なって世の中のできごとがどのように組み立てられているかを知る手段となり、私たち世界のすべての人びとはそれを知る権利がある」

■「過去は物語の始まりである」とシェークスピアもいっている。過去を記録して、しっかり保存していくこと。それがアーカイブの本質であるが、時代の変わり目の今こそその作業が大切なときはない。
by katorishu | 2006-11-19 00:34