コラム


by katorishu
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「価値音痴」の増殖が文化の劣化をもたらす

 12月13日(水)
■著作権切れの昔の名画のDVDが500円で売られており、ときどき買う。本日も自宅近くの駅構内で販売していたので、5作も買ってしまった。いずれも外国映画で『オルフェ』(ジャン・マレー主演、ジャン・コクトー監督)、『終着駅』(ジェニファジョーンズ主演、ヴィットリオ・デシーカ監督)、『邂逅(めぐりあい)』(フャルル・ボワイエ主演、レオ・マッケリー監督)、『心の旅路』(ロナルド・コールマン主演、マービン・ルロイ監督)、『赤い風車』(ホセ・ファーラー主演、ジョン・ヒューストン監督)。

■仕事で必要なこともあるが、単に鑑賞者として楽しめそうだ。すでに見た作も多いが、内容を忘れてしまったものもある。名作をこんなに安価で、いつでも見ることができるなど、一昔前であったら夢のまた夢である。今の映画監督志望者は恵まれていると思う。ホームビデオとパソコンを使えば、ちょっとした「映画」(に似たもの)を造ることも出来る。

■ただ映像関係の志望者が「恵まれた環境」を十二分に生かしているかというと、疑問である。便利さ快適さに慣れてしまえば「動物園の動物」と同じで、生物の個としての能力の上達にむけて努力もしなくなる。どれほど「才」があっても「努力」なきところに「花」は咲かない。
 脚本家志望の若者などに、一度でもいいから自分が面白いと思った作品の画像を見て、それを「脚本」という形に「起こしてみる」ようすすめるのだが、現実にそれを実行する人は極めてすくないようだ。ビデオやDVDがあるからこそ出来るトレーニングである。

■脚本に置き換える作業は、原稿用紙に手で書かなければいけない、といっている。トレーニングなのだから「効率」や「手軽さ」を重視してはいけないのである。スポーツのトレーニングで、例えば走るメニューがあるとしてある距離を車にのったりしたらトレーニングの意味がない。脳からの伝達を指で紙に刻みつける作業が、脳への記憶として有効に定着するのである。小説なども同様である。以前はよく「小説の神様」といわれた志賀直哉などの短編を一字一句、句読点などもふくめて原稿用紙に書き写すことが、小説を書くために必要だ、といわれたりした。

■ただ読んだだけではわからない文章の呼吸のようなものが、原稿用紙に手で書き写してみると、伝わってくる。呼吸はリズムに通じ、「間」というものにも通じる。プロとアマの違いは、文章の「リズム」が大きな位置をしめている、とぼくは思っている。文体、語り口……といったものも、文章のもつリズムである。小説に限らず、脚本でも、佳品はかならず、その作家独特の「リズム」「文体」をもっている。これが会得できれるか、どうかが、プロとアマの分かれ道になる。ただ、最近は編集者にしても、プロデューサーにしても、作品の価値がわからない「価値音痴」が増えている。

■「音痴」のより所は目に見える「数字」である。かくて「数字」をますます重視する文化が跳梁跋扈し、文化は劣化していく。もちろん、真髄を見抜く眼力をもっている編集者やプロデューサー等もいるが、そうではない人間が重要なポストにつく傾向が強くなっている。心ある関係者の嘆きが、ときおりぼくのところにも流れてくる。一方、「受け手」にも「価値音痴」が増えているので、それでよしという人間が増えているようだ。嘆かわしいことである。ま、本当に才能と意欲のある人は「価値観の音痴」の壁を突破して、自己表現の「城」を築いていくものだが。
by katorishu | 2006-12-14 01:31