堀江貴文氏がニューヨークタイムズのインタビューで「日本では若者が評価されない」と批判と愚痴
2007年 01月 08日
■資料を整理していたら、13年ほど前に「小説現代」に書いたリストラの厳しい現実についての120枚ほどの小説「リストラクチャリング」が出てきた。発表当時「リストラクチャリング」という単語自体が新しく、内容もよく知らない人が大半で、小説はほとんど「無視」されたが、今読み返してみると案外今の会社の内情を伝えていることに気づいた。(当時より一層厳しくなっています)
■で、設定を現在に変え、家庭の問題や情報戦などの要素を加味し、長編小説に仕上げようという気分になっている。気持ちがさめないうちにと、近くの本屋に行き人事や労働法の本などを買った。この作の長編化にさく時間があるかどうか未知数で、出版してくれる版元となると更に未知数だが、「ホワイトカラー・エクゼンプション」とやらの妙な法律を成立させようとしたりする政府や経団連等の「額に汗(背中に脂汗)して働く人軽視」の施策を見ていると義憤を覚え、書きたい意欲が募る。
■堀江貴文氏がニューヨークタイムズとのインタビューで、自分は40代、50代の管理職層やエリート層の嫉妬によって罪に陥れられたと語っていると、テレビのニュースが報じていた。その中で堀江氏は、日本の社会は「若くてコネもなく名もない家庭の出身者は何もさせてもらえない」と語ったとか。「何もさせてもらえない」は恐らく「直ちに評価されない」「自分のしたいように出来ない」という意味なのだろう。それは「ヒガミ根性」ではないかと思う。どんなに才能をもった人間でも、才能を開花させるためには「長く苦しい準備期間」が必要なのである。
■そもそも大学を出た若者が企業や組織に入り、直ちに「したいことをし」「評価される」など期待するほうが無理というものである。企業にはいらず起業したとしても、本当に内容があり、かつ社会的に存在意義のある企業であったら、社会から一定の評価をうけそれなりの利益を恒常的にあげるまでには、長い時間がかかる。堀江氏のようなテコの原理がきくITとマニュアルになれた人間は、一応のマニュアルの工程を踏めば、すぐ「成果」が出るはずで、そうならないと「おかしい」と思いこんでいるのだろう。「したいことをしたければ」すればいいのである。文化や芸術、スポーツの分野などでは意欲と才能にあふれた若者は昔からみんなそうしている。
■芸能界などでは、さしたる努力もなしに脚光をあびる人もいるが、何事か意味のあることをなしとげるには長い忍耐と精進の時間が必要、というのはある時期までは「常識」であった。「世襲」などで「名のある家の若者」が、実力の何十倍も「いいめ」を見ているという現実もあるが、これまでの日本は本当にやる気と能力があれば「名もない家の子」や「貧しい家の子」でも、少々時間はかかるにしても社会から評価されることが多かった。
■私見では、堀江氏らIT長者が輩出したころから、極端な格差が社会に生まれ、特に「貧しい家に生まれた子」や「見識のない親の元に生まれた子」は、ずうーっと「社会から評価されない」状態が続きそうな事態になってしまった。「格差」の固定化である。
明治維新後の「繁栄」がよかったことなのかどうか、近頃少々の疑問も覚えてはいるが、日本社会が世界に伍して「大国」になった原動力は、中流以下の層からでも意欲と能力さえあれば努力の末、社会のリーダークラスになれるという「夢」や「希望」があったからである。
なんだかだといっても、新潟の高等小学校しか出ていない人間が総理大臣までなれたのである。ソニーやホンダだって、町工場からの出発だった。よって堀江氏の言い分は正しくなく、愚痴である。
■今、政府は中国の「先富論」の理屈に似た論理で、「格差」を助長させるような政策を打ち出し、財界が後押ししている。「中産階級」「中流意識をもった層」が凋落し、一握りの富裕層と多くの貧困層が増える社会を「良し」としているのだろうか。だとしたら、大きな間違いである。日本の美点であり強みでもあったのは、「中産階級」が厚かったからである。誰でもわかるこんな理屈を無視するほど、ガリガリ亡者になってしまったのだろうか、日本の指導層は。
■ところで、先述した長編化を試みる予定の小説のタイトルは『バイバイサバイバル』にしようかと思っている。ラストで主人公の中年サラリーマンは企業での「サバイバル競争」にサヨナラをして、一見貧しいけれど自然の豊かな田舎にもどり「人間らしい生活」を送ろうと決意する(ややパターンですが)。
市場原理主義の世界で厳しい現実を生きる中年サラリーマンの「切実な息づかい」が伝わると同時に、最後が「癒し」につながれば――成功ということになるのだろうが、「思うは易し」「書き上げるは難し」である。