今、必要なのは節度
2004年 10月 21日
また大型台風が接近、激しい雨が降っている。「観測史上初」といった言葉が天気関連の記事に頻出する。それほど今年は、異常な気象つづきである。
早稲田の事務局から連絡があり、本日の夜の講義は交通機関の乱れが予想されるので、休講にするとのこと。
夏の猛暑が去ったと思ったら、まるで梅雨を思わせる雨降り。多分、昔の人なら、こういう異常気象をさして「天の怒り」と解釈して、我が身の行いを顧みて反省したり、行動を慎んだりしたにちがいない。
科学文明が「万能」だと信じている現代人は、自分たちこそ地球の「王様」と思っているので、そんな反省をすることもなく、日々、限られた天然資源の浪費に明け暮れている。
異常気象の原因がなんであるのか本当のところはわからない。しかし、素人考えながら、どこかで天然資源の過剰な消費と結びついていると思えてしまう。
現にペンタゴンの秘密文書が、温暖化の悪影響を指摘している。
今のような石油資源等の消費がつづけば、温暖化がすすみ、例えば海流の流れに変化がおきて、ヨーロッパはシベリアなみの寒冷の地になる……等々、危険性を指摘している。テロなどよりずっと深刻な事態が目の前にきていると報告しているのである。
このままでは、人類は大変な事態に遭遇する。「天の怒り」と畏怖し、節制を心がけ、自然環境の保護にもっと意を尽くす……このほうが賢明な生き方だと思うのだが。
もちろん、ぼく自身を含めてだが、人類のやってきたことはロクでもないことが多い。最大の被害者は、他の動物であり、植物等である。例えば牛や豚の目から見たら、人間はヒトラーも顔負けする「悪魔」である。
動物の中には肉食動物も多く、彼らの「犠牲」になる草食動物もいる。しかし、彼ら動物は自分が食べる以上の動物を、決して大量に殺戮したりはしない。 「食物連鎖」の範囲を守って生きており、誰から教えられたのでもなく「足(たる)を知っている」のである。
人間だけが、とどまることのない欲望を全開させ、他の生き物の迷惑を顧みず、欲望の全開こそが「幸せ」なのだと思いこんでいる。
とくに先進国の人間が問題である。他を殺して食べて生きる。これは人類がずっとやってきたことで、そうやって種の保存に努力したからこそ、現在まで続いているのだが、以前はまだ節度があり、他を殺すことに、ためらいや憐れみがあったはずである。そこから敬虔な気持ちが生まれ、他への供養もしばしば行ってきた。
もっとも、インカ文明などを滅ぼしたスペインや、インディアンを駆逐したアメリカ人など、「帝国」や「繁栄」した国は、大量の人間を無造作に殺戮してきたのだが……。
独裁的な権力者や「帝国」を自称する指導者などが、己の欲望の実現のため、どれほど多くの人間を殺しまくったか、歴史をひもとくと溜息がでる。
ただ、少なくとも、庶民レベルでは、「欲望」もささやかで、日々の暮らしに節度があったはずである。
己の欲望実現のため、例えば「朝鮮征伐」などという愚行を実行した豊臣秀吉など、一部権力者は論外だが、圧倒的多数の庶民は、他を殺して食べるという「現場」を子供のころから見てきたはずである。
そこから、命を失う者に対する憐憫の情があったと思いたい。
ところが、いつのころからか、とくに先進国の人間は、影を覆い隠し光の部分にのみ関心を向けてきた。一例が屠殺の現場である。一般からほとんど隔離されてしまっているので、他の命の犠牲の上に生きているのだという実感が薄くなる。
モンゴルの遊牧民などは、可愛がって育てた羊を自分で殺して食べる。彼らは子供のころから命の失われる現場を見ており、そこから、生きるとはどういうことか、人間とは動物とはいったいどういう存在なのか……等々、いろいろと学ぶにちがいない。
以前は日本にも存在した「マタギ」などの狩猟民も同様で、森とそこに住む動物への畏敬の念を常にもっていた。
ところが、現在のように、口当たりやすく加工されたハンバーガーの類ばかりに接していては、なにも学べないし、「成人病予備軍」を大量生産するだけである。
自然への畏怖の欠如。これが問題である。
そして、イマジネーションの貧困さ。映像の氾濫も、想像力の欠如を助長させているようだ。 与えられたイメージにどっぷりつかり、自ら考えることが希薄になっているのである。想像力を涵養させるには、読書が一番なのだが「活字離れ」とかで、本を読まない。
読んでも、安易なノウハウ本の類。物事を根本的に考えたり、想像力を働かせる力は、どんどん弱ってきているような気がしてならない。
ところで、「他の身になって」考えることは、じつは想像力の問題である。他の身になって考えれば、己の欲望にも自然、ブレーキがかかり、そこに節度が生まれるはずなのだが。
現代の日本人に一番欠けているのは「想像力」であり、そこから導きだされるはずの「節度」である。
政治や経済、社会のリーダーこそ他にさきがけて節度をしめす必要があるのに、現実は逆である。リーダーが驕り高ぶって己の欲望を全開することに意を注いでいる。己の欲望がより強く、「他人の迷惑」を考えない人が、リーダーになっているのかもしれない。
最近、引退を宣言した某鉄道会社の実質的支配者など、その典型である。彼には「インサイダー取引」疑惑など数々の疑惑がもちあがりつつある。
節度を失った社会の行き着く先は見えている。
人類の絶滅の時期を遅らせるためにも、今こそ、「節度」という価値観を、とくに先進国の人間の中に根付かせるときだ思う。
社会のシステムを変えないで、急に国民が「節約」をし、消費を抑えてしまったら、さらに企業が倒産したりして、もっとも弱い層にしわ寄せがいくだろう。
それでは、どういう仕組み、どういうシステムにしたらいいのか。理想のシステムなどありようがないのかもしれないが、一人一人が、この問題を真剣に考える時期にきている。
まともに、真剣に考えれば、日々の行動も、すこしは変わるはずである。少なくとも、ぼく自身は変わった。正確にいえば、変わったと思っている。