「新潟日報」でも社説の盗用
2007年 02月 23日
■過日、山梨日日新聞の論説委員長が盗用を繰り返し、クビになったが、今度は新潟日報の社説でも盗用があった。拉致問題についての朝日新聞の社説から盗用していたという。週に3,4本執筆しなければならず、「きついので」悪いと知りつつ盗用してしまったと弁解しているそうだが、困ったことである。多くの人の目に触れる大新聞の社説から盗用したら、発覚するのは当然である。そういうことに思いの至らない人が、社説を書いている。新潟日報のホームページにはお詫びの社告が載っており、それによると小町孝夫という論説委員がしたことだという。
■引用を明記して、そこから持論を展開したり反論したりするのなら、盗用でもなんでもない。しかし、あたかも自分の意見、見解であるようにして、他人の書いたものを丸ごと書き写す。アマチュアのブログなどでは、かなりの程度行われているのかもしれないが、地方紙とはいえ新潟日報は長い伝統を誇る新聞である。調べれば他の新聞でも、似たような社説や記事がぞくぞくと出てくるような気がする。
■自分の意見、自説といっても、他から影響を受けたり、他人の見解に感化され、無意識のうちにも見解そのものが似てくることは、よくあることである。従って、似たような見解を発表しただけでは盗用にはあたらない。ヒントを得たり、影響を受けることは、当然である。ヒントや影響と、盗用の境目は曖昧であるが。
素材として参照しても、自分の頭で考え、自分の文体で文章化すれば、おのずと書く人の個性が出るもので、それは盗用とはいわない。
■新潟日報の場合、具体的にどのような盗用なのかはっきりしないが、計六カ所で朝日の社説と酷似したところがあり、本人も盗用を認めた。愚かしいことである。
ところで、一人の人間の「オリジナリティ」といってもタカが知れている。言語ひとつとっても、長年にわたって先人のつみあげてきた基盤の上で、活用させてもらっているのである。考え方、感じ方も、先人のつちかってきたものに、ほとんど負っている。そこから出発して、その時代・時代の特色、問題点をえぐり出し、どのように「新しさ」「独自の見解」「独自の感じ方」を創り出せるか。「個」の見せ所であり、だからこそ、表現の面白さもあると思うのだが。
■丸ごとコピーしたりペーストしたのでは、創る(書く)喜びもあったものではない。盗用氏は恐らく強い後ろめたさを感じつつ丸写しをしていたのだろう。いや、もしかして、後ろめたささえ失っているのかもしれず、バレたのは運が悪かったと思っているのかどうか。学生のレポートや論文なら、ともかく文筆のプロがこうも相次いで盗用するとは。「世も末」という言葉は、こういうことについて使うのだろう。
インターネットは便利なので、自分自身、うっかりそのままコピー、ペーストすることは、ありうることなので、充分すぎるほど注意をしなければ、と改めて思ったことだった。