弥生3月、明るい風を望みたいもの
2007年 03月 02日
■禍福はあざなえる縄のごとし、と昔の人はいった。良いことのあとには悪いことが起こり、悪いことのあとには良いことも起こるということで、山あり谷ありといった言葉と同じような意味である。ただ微妙に意味が違う。「縄をなう」という言葉が消えたばかりか、「縄」と聞いても「ロープ」しか思い浮かべることの出来ない人も多くなっているようだ。視覚的イメージがそもそも違うし、言葉のリズムも違う。
■最近ではものごとを「易しく」言い換えることがはやっているが、「易しく」してしまったら、第一語感が伝わらないし、微妙な意味合いも伝わらない。雨といっても霖雨や驟雨等々、豊穣な言葉が日本語にはいろいろとあるのだが。
■簡単に、単純に、言い換える言葉ばかりになったら、言語は衰退する。テレビなどを見ていても、「味のある」会話の出来る人がほんとうに少なくなった。現実には味があり、含蓄深い言葉をつかえる人はまだかなりいるのだが、単純化、わかりやすさをを求めるマスメディアでは、そういう人は排除される傾向にある。
■物事を黒か白かで割り切ろうとし、そうしないと「なんとなく落ち着かない」という空気が社会にできあがっているようだ。黒でもあり白でもあるという「グレイゾーン」が、多くの場合、事の本質であるのだが、欧米的思考は曖昧さをあまり評価しない。
玉虫色の解決とか、陰影礼賛とか――日本語には面白い表現がいろいろとあるのだが、そういう言葉を使っても理解できない人が増えている。諺などにも、深い意味合いがあるのだが、そういう漢語や諺、ちょっと難しそうな表現を使うと、「古い」と思われてしまうようだ。
かわってやたらと目につくのが、日本語でも英語でもない「ジャパニーズ・イングリッシュ」のカタカナ言葉。テレビのコマーシャルなどでも、あきれるほどカタカナ言葉が多い。あってもいいのだが、多すぎるのである。
■上海の株の急落に端を発した世界同時株安の流れは、本日も続いたようで、東京株式市場は続落した。ぼくは株をまったく持っていないが、株価は市場経済の重要な指標なので、気にしないワケにいかない。1929年のような大恐慌にはならないと思うが、アメリカの景気後退も顕著になってきているし、中国バブルがはじけたら、瞬時に世界に波及し、日本も深刻な影響を受ける。月曜からの株価の動きは要注意である。
■ところで本日から弥生3月。いろいろ厭なこと辛いことがあっても、とにかく「春の息吹」が感じられると、それだけで心が弾むはずなのだが、都会のコンクリート社会にいると、なかなか季節の到来を肌で感じ取ることはむずかしく、言葉の上だけの「弥生」になってしまう。高層ビルが建ち並ぶ前の東京には、自然がまだかなり残っており、住宅街には生け垣などが随所に見られたものだが、今はコンクリートの塀ばかり。防犯の関係と手入れが必要なことから、生け垣は急激に減っていった。
■世の中万事便利にはなったものの、「これでいいのか」という思いは日々消えない。本日は北千住の脚本アーカイブズの「全体会議」。こちらも、ぼくの執筆作業と同様、今年が正念場である。弥生3月、明るい風の到来を望みたいものである。