新発見の貴重な資料『小倉庫次侍従日記』を読む
2007年 03月 11日
●毎日、このブログを書き続けるのは、かなりシンドイときがある。が、とりあえず、「続けることに」に意味があると思って、駄文に堕することでも記したりしている。
以下は「ガンジー村通信」に月一回書いている連載コラムの一部です。すでにアップされているので、一部をここに掲載してしてもいいかと思います。著作権はぼくにあるもので。
■07年3月9日の朝日新聞の一面トップに、「昭和天皇 戦時の肉声」という見出しの記事が載った。太平洋戦争開戦前後から敗戦まで昭和天皇の侍従として仕えた故小倉庫次・元都立大学法経学部長の日記が、最近発見され、10日発売の「文藝春秋」に載っているとのこと。
「支那事変はやりたくなかった」「戦争は始めたら徹底して」などという昭和天皇の「肉声」が見出しとして記されていた。
■昭和史をテーマのひとつとして物を書いてきた者として、読まざるを得ない。本日、書店で「文藝春秋」4月号を買った。『小倉庫次侍従日記』とタイトルされた73ページにわたるもので「新発見 昭和史の超一級史料!」とサブタイトルが記されている。昭和史研究家の半藤一利氏の適切な「注」が入ったもので、「戦中の天皇像」に一部変更をもたらす内容といってよい。
■精読したので読了するのに5時間以上かかってしまった。面白いといっては語弊があるが、簡単に読み飛ばすことのできない、重い内容を含んだ貴重な資料である。 小倉侍従は昭和14年5月に侍従兼皇后宮事務官に任ぜられた人で、半藤氏によれば「戦前において最初の平民出身の侍従」であった。侍従とは天皇の側近として仕える身で、天皇の肉声もよく耳にする立場にある。小倉侍従は「侍従職庶務課長」として、各大臣や陸海軍統帥部総長や侍従武官長などの天皇への拝謁の時間調整を担当していた。
■昭和天皇の「生の声」として『昭和天皇独白録』(文春文庫)があるが、これは戦後になって昭和天皇が文字通り「回顧」したもので、「その時点」での「価値観」がはいっており、当然のことながら整理されたものである。侍従の日記には天皇の素顔がリアルタイムで記されており、恐らく公表を前提にしていない「私記」なので臨場感がある。
■なぜ今になってこの日記が出てきたのか、新聞も雑誌も触れていないが、読み進めていくと、昭和天皇があの時代、どういう空気の中で生き、どのようにして陸軍の強行派におされて対米開戦に踏み切らざるを得なかったか等々、心の苦衷が垣間見えてじつに興味深い。皇后と「夫婦喧嘩」をしたことや、「父親」として子供を手元に置いて育てたいという願いを「仕来り」によって拒否されることなども記されており、「あらひとがみ」ではなく、まさに「人間天皇」の一面が垣間見え、当時の時代背景を念頭に置いて読むとじつに興味深い。
■06年、ロシアのソクーロフ監督が昭和天皇をモデルに『太陽』という映画をつくった。イッセー尾形が昭和天皇を、彼以外の役者では不可能と思われるほど巧みに演じるのだが、そこにはまさに「人間としての」昭和天皇、それもデリケートでむしろ「弱々しい印象」の昭和天皇の「私生活」が活写されていた。フィクション部分もかなりあるのだが、この度の侍従日記を読みながら、
『太陽』で描かれた昭和天皇像が脳裡から離れなかった。
■日本が破滅の道にはいりこんでいく分岐路は「日独伊の三国同盟」であったとは、よくいわれることである。ノモンハン事件の際、情報将校として戦場に赴いた旧軍人にインタビューをしたことがあるが、その人も「三国同盟を結んだことが日本の失敗だった」と話していた。
侍従の日記の随所に、三国同盟締結の立役者、松岡外相への嫌悪感が記されている。近衛首相に「松岡一人を辞めさせられないか」と問うたりして、日本がナチスドイツとの関係を深めていくことを相当懸念している。
しかし、昭和天皇の懸念とは逆に軍部、とくに陸軍の少壮将校が暴走し、陸軍の首脳でもおさえられなくなり、やがてノモンハン事件が起きる。事件後、板垣陸軍大臣が上奏した折りの模様を日記はこう記す。
『直後、陸軍人事を持ち御前に出たる所、「跡始末は何うするのだ」等、大声で御独語遊ばされつつあり』 さらに、不快のあまりなかなか人事を決済しなかった様子も記されている。
日記はさらにこう記す。
『今日の如き御忿怒に御悲しみさへ加えさせられたるが如き御気色を、未だ嘗て拝したることなし』
■その後、ナチスドイツがポーランド等を侵略しフランスを降伏させた折の昭和15年7月31日の日記には、『コンビエーニュの森の独仏会談のニュースの御話を申上げたるに、「何うしてあんな仇討めいたことをするのか。勝つとああ云ふ気持ちになるのか、それとも国民がああせねば承知せぬのか、ああ云うやり方の為に結局、戦争は絶えぬのではないか」などと仰せありたり』とある。
半藤氏の注によれば、6月22日、フランスのコンビエーニュの森でヒトラーがフランスに降伏調印式を行ったときのことだという。
第一次大戦のとき、敗北したドイツはこの場所で屈辱的な休戦条約に調印させられたのだった。偶然、停車していた食堂車の中で調印させられたとのことで、ヒトラーはその仇をとったように、記念に保存されていたその食堂車を選び、かつての勝利者の椅子に腰をおろして勝利の栄光を満喫したという。
■政治むきの動きの合間合間に『太陽』で繰り返し描かれたように、海の生物採集をする模様が記されている。
吹き上げ御所の「小火」のこともぼくには興味深かった。生物研究施設が原因不明の火災にあったのだが、なんと近衛兵が放火したものであったという。
さらに、皇后が家ダニにさされたことや、高松宮殿下との激しい口論のことや三種の神器を急遽地下の金庫に移したりしたエピソードなども記されている。
昭和天皇はときどき、映画を見るのだが、「虹の道」という雲月の浪曲映画を見た折など、『殆どお解りにならざりし由を拝す』となどいう文字がある。庶民の哀歓を描いた人情劇は、まるで「別世界」の出来事であったのだろう。
■日記の核心にあるのは、日本が日米戦に傾斜していくプロセスである。昭和天皇に拝謁する政府首脳や陸軍首脳に対して、天皇がどういう距離をとったか、どんな言葉を漏らしたかを抑えた筆遣いで記していく。淡々とした記述の奥に、昭和天皇の切実な息づかいがを感じられ、時に痛々しいほどだ。
この年、昭和天皇は40歳。『本日、御髪の紊れに白髪を初めて拝せり』と日記は記すが、「そんなに若かったのか」と今さらながら驚く。
■今、40歳といえば「若年」に属するといってよく、「成熟した大人」とはいえない人が多い。しかし、昭和天皇は「天皇」としての振る舞いを運命づけられており、その年齢の人間にしてはあまりに重い責任を背負っている。
昭和17年12月11日の京都行幸の折に、20数年前の皇太子時代にヨーロッパを外遊したときが「自分の花であった」と語る。天皇制というシステムにがんじがらめに縛られた人間の「叫び」とも受け取ることができる。
■京都行幸の折りには自己の戦争観を語っているが、それも興味深い。『戦争は一旦始めれば、中々中途で押さえられるものではない。満州事変で苦い経験を嘗めて居る。従って戦争を始めるときは、余程深重に考へなければならぬ』
『戦争はやる迄は深重に、始めたら徹底してやらねばならぬ、又、行わざるを得ぬと云ふことを確信した。満州事変に於いて、戦争は中々途中ではやめられぬことを知った』
肉声であると同時に「本音」が垣間見える箇所である。天皇制というシステムの中にあるので、システムが動きだしてしまえば、その論理に従うしかない。
■映画 『太陽』のなかで「昭和天皇」は確か「天皇も楽ではないですよ」といった意味のことを、戦後、取材に赴いたアメリカ人ジャーナリストに話す箇所があったと記憶しているが、現在の「雅子妃」の置かれた立場などを思うと、納得できる。
日記に特徴的なことは、全体を通して東條首相や松岡外相などナチスドイツに傾斜する軍人や政治家に対して随所で嫌悪を示していることだ。皇国史観で名高い平泉澄帝大教授に対して好感をもっていないことなども記されている。
■この日記に限らず、昭和史に関連したことで、まだまだ埋もれた記録があるにちがいない。敗戦時、軍や政府関係の膨大な資料や書類が焼却処分されてしまった。空襲で焼失した資料類も膨大であり、そのため歴史の闇の彼方に永遠に埋もれてしまった「事実」も多いに違いない。
一般に歴史とは勝者の歴史といってもよく、われわれの知っている「歴史」は、現実にあったことの「一部」でしかない。特に戦争にまつわることでは、生き残った人でも「墓場までの秘密」として生涯語らずに逝ってしまった人も多い。過去の愚かさの轍を踏まないためにも、現実に「あった事実」「起こった事実」「指導者などの言動」等々は、記録として残し次の世代に伝えていく
必要がある。
歴史に「もし」というのは無意味なことかもしれないが、「もし」失われてしまった資料類が残っていたとしたら、歴史の相当部分は書き換えられたに違いない。