天変地異を奇貨として
2004年 10月 24日
23日午後5時56分ごろ、新潟県中越地方を震源とする地震があった。震度6強で、何度も揺れた。このとき、ぼくは自宅近くの喫茶店の窓際のカウンター席で「仕事」をしていた。
最初、目眩かなと思ったが、そうではなかった。天井からさがった照明器具が揺れており、隣りの客も妙な顔をしていた。ガラス窓の向こうの玉川通りには、いつものように車が走り、人が歩いている。
一度ではなく、何度も揺れを繰り返すので、いつも持っている携帯ラジオをとりだし、イヤホーンを耳にいれてスイッチをいれた。アナウンサーが、新潟が震源地であり、被害が出ていると報じていた。
今年は、猛暑、数多くの台風の襲来……等々、自然災害が例年になく多かったという気がする。天変地異である。
昔の人は、人間の力ではどうにもならないことを、「天の意志」「神の意志」として、畏怖し、畏敬した。そこから、自らの傲慢さや、身勝手さを反省し、自己の欲望とのバランスをとっていたのだと思う。
それが「科学万能」の時代になって、「自然」とは人類の英知で克服し征服すべきものと考えるようになった。
当然、自然への畏怖心、敬愛の心などが、すっとび、己の欲望のままに、「開発」という美名のもとに、自然破壊をやりたい放題やるようになり、それが「進歩」であり「善」であると考えるようになった。
アメリや日本をはじめとする「経済大国」がとくに急先鋒となって、この路線を推し進め、これからも推し進めようとしている。
自然の「暴威」から自分たちの生活を守るため、河川などの改修工事をし、地滑り等の防止策を講じるまではよかったのだが、さらに川や海を埋め立て、山を削って、コンクリートで塗り込めたり……人間は偉大な存在であり、自然を克服、征服できるのだとばかり、「開発」という名の自然破壊をすすめてきた。
その結果、他のいろいろの生物が住めない環境をつくってしまった。地下資源を掘り起こし、大量に消費し、消費が多ければ多いほど「幸福」なのだという価値観をつくりだしたのである。
地球の自然や地下資源が無限であるのなら、それも結構かもしれないが、有限であり、このまま、開発や浪費を続ければ、早晩、枯渇してしまう。
人類の英知は、そんなことを百も承知であるはずなのに、動きはじめた「文明の歯車」はなかなかとめようがなく、今や破滅に向かって大きく回転をはじめてしまった。
心ある人がブレーキをかけようとするのだが、圧倒的に多くの人間や指導層は、もっと「豊かに」もっと「便利に」もっと「快適に」なろうとして、アクセルを踏み続けている。
それがどういう結果をもたらすか。乱獲が絶滅をもたらすのと同じで、昔の人はよく知っていた。だからこそ、自然を畏怖し、これを敬愛し、己をおさえて、共に生きようと知恵を働かせてきたのである。
最近の天変地異は、昔の人のように「天の声」「神の声」であり「天の怒りと受け止めるべきだろう。
他の犠牲の上に成り立つ「幸せ」など、本当の幸せなどではなく、いずれ他の「犠牲」はマイナスの刃となって、自分たちにふりかかる惨禍になるのだということ。それを強く自覚して、「便利さ」「快適さ」ばかりを追求する生活習慣から脱却するべきだろう。
キーワードは他と共に生きる。つまり「共生」である。他とは必ずしも人間とは限らない。動物であり植物である。生きるために、他の命を殺して、これを摂取することは許されるべきことだが、そこには節度や、限度というものがある。
日本語には「ほどほど」という言葉がある。 一部、強欲な権力者や成金などは別にして、普通の庶民の間には日常の生活意識として根付いていた言葉である。
現在、地球の人口は60億。10年、20年後には80億にふえ、さらに増え続ける見通しだという。増えすぎた人類が、さらに「便利さ」「快適さ」を目指して、欲望全開の生活を目指そうとすれば、どういうことになるのか。
一部企業家やビジネスマンは物が大量に売れて儲かるので大歓迎かもしれないが、やがてとんでもない事態に至るのは目に見えている。欲望と欲望がぶつかりあい、争いが起こり、それがエスカレートして戦争へと発展することだろう。
戦争こそ、「快適さ」の対極にあるもので、なんとか英知を発揮して避けるべきことである。
一人一人が「共生」をキーワードとして、これまでの「右肩あがり」の経験則から脱して、新しい生き方を実践していかないと、大変な事態になる。
天変地異を奇貨として、現在の文明社会のあり方について、根本的に考えてみることが、今ほど必要なときはない。