北京の段ボール入り肉まんは「やらせ」というのだが――
2007年 07月 20日
■中国で段ボール入りの肉まんを作っている光景がテレビ放送され、中国人はなんとひどいことをするのかと話題になったが、これがテレビ局の「外部スタッフ」による「やらせ」であったという。ぼくもテレビのニュースを見て、ひどいと思った。同時に、こんな滅茶苦茶なことをまるでテレビカメラに向かって「見せるように」やっていたので、ヘンだなとは思った。それが、やらせであったとは。
■どんな意図があったのか、わかりかねる。単なる面白い話題つくりのため、突っ走ってしまったのか、あるいは中国の指導者にダメージを与える隠された意図でもあったのだろうか。
来年の北京オリンピックを前に、世界の目が中国に集まっているが、そんな首都で、あんないい加減な食い物屋が営業しているとして、あの光景は相当程度、中国指導部への打撃になったはずである。
■確かにこのところ、中国の飲食物は問題が多い。法律で禁止されている防腐剤そのほかが混入しており、アメリカでも中国の食品を一部輸入禁止にしたとのニュースが流れた。
本日、大井町のコーヒー店で隣に座った3人の車いすの女性たちが、この話題で盛り上がっていた。「わたし、中国製品は絶対食べない」などと話していたが、原料などをふくめると多くの食糧品に「中国産」がまじっており、中国産の原料を一切使っていないものを探すのに苦労するほどだ。
■豆腐の原料の大豆など大半は中国産であり、日本独特の食べ物である蕎麦にしても、そば粉の多くは中国産である。さらに衣料品の70パーセントが中国製品であり、それと気づかずに多くの日本人は着ている。すでに中国という国がないと、日本の経済が成り立たなくなっているのである。
■食糧自給の点で、日本は極めて問題をかかえている。政府の長年にわたる農業政策の失敗から、「外国産に頼る」システムが出来上がり、それはあまりに社会の隅々に深く入り込んでしまっているので、かえって国民は気づかなくなっている。余りに当たり前すぎて空気の存在を日頃意識しないように。
■ひところ、メイド・イン・ジャパンは「粗悪品」の代名詞であったが、今は、メイド・イン・チャイナが粗悪品の代名詞になっている。
衣類など、日本の商社などが深くからみ、現地に日本国内と同じような縫製機械をいれて、丁寧に指導していると聞く。そのため、国内品とそれほどかわらない仕上がりも多いのだが、段ボール入り肉まんの「悪いイメージ」は強烈なので、中国製品拒否の空気が濃くなってきた。
■国内産を愛用するのは大変結構なのだが、それが「ナショナリズム」へ向かうのはボーダレス化の時代、歓迎すべきことではない。日本はすでに海外の資源に依存しないと生きていけない「体」になってしまったのである。そのことを、まず深く心に留め置いたほうがいい。
■過日、テレビでカナダの政治学者が、「王子の豆腐屋に張り紙がしてあって、うちの豆腐は日本産の大豆を使っているので、おいしいです」と記されてあったという。「国内産だから、おいしいという理由は何もないのに、未だにそんな狭い見方をしている」といぶかっていた。
■このところ「国内産」は良くて、海外産は悪い――といった風潮になっている。舶来ものをあれだけ珍重する日本人が、輸入食料品については否定的な見方を示す。食料品の多くが、アジアなどの「開発途上国」からくるので、そういう見方になるのだろうか。国内産であっても、信用できないものはいくらでもある。国産品、中国品、どれにも善し悪しがあるということである。
■中国は巨大な人口をかかえた国なので、良い人もれれば悪い人もいる。数が多いだけ、ワルの数も多いということになるだろう。それと、日本とは比較にならないほどの貧富の差の存在。これが社会全体のモラル低下に影響していることは明らかである。
「あいつら、うまいことやりやがって」という怨嗟の気持ちあれば、人を見る目にバイアスがかかり、人が窮地に陥ることを密かに喜ぶものである。
■国内ばかりでなく、世界的にひろがる「格差」。それも、埋めようがないほど絶望的にひろがった「格差」。これがある限り、テロなどはなくならない。
足を踏まれた人の痛みを、踏んでいる人はわからないものである。人の足を踏んで、その痛みを知らない人が世の指導者になって、きれい事を叫んでいる。踏まれている人は、もっと怒らなければいけないのに、踏んでいる人に比べ、総じて、おとなしい。だから踏まれるのである。「踏むな」と絶えず声をあげたりしていないと、必ず踏む人がいる。
■ほんとうは「踏む」ことも「踏まれる」こともない社会がいいのだが、それは理想というもので、この世は基本的に生存競争なので、「踏む」「踏まれる」つまり食うか食われるかの戦いがくりひろげられている。残年ながら、これが現状である。
動物の一種である人間には依然として「ケモノ」の本能が宿っているということだ。そのため、厳しいルールと罰則を課さないと、すぐケモノの社会になってしまう。
■ケモノと違うところは、一定のルールをつくり、これを守る点である。そうするには、言語が必要であり、言語が機能しているからこそ、人はケモノと分離される。
ところが、近頃、言語があやしくなりだした。比例して、欲望がむきだしになり、どうもケモノに近くなってきた。この傾向と比例して、(ハウツー本や漫画ではない)まっとうな本が売れなくなった。言葉を生業にしている者として大いに気になることである。