意欲ある若者
2004年 10月 28日
最近の若者は「意欲がない」「覇気がない」「粘りがない」などと、よくいわれる。子供の数が減り、大勢の中でもまれ、喧嘩をし、取っ組み合ったりすることも少なく、「大事に」「我が儘」に育てられた子供が、以前とくらべ多いはずだから当然の結果とはいえる。
全体としての傾向は、確かにその通りなのだろうが、意欲や覇気に富み、目標をかかげて、それに向かってエネルギッシュに行動している若者もいる。
本日、早稲田の二文のシナリオ演習の授業で、自らの「自主映画」体験を披露した松崎香南子など、その一人。当初、自分が脚本・監督を担当した映画のPRをかねて話す時間を10分ほどもらえないか……ということだったが、面白いので授業の半分ほどは、彼女の「独演」となった。
30分の作品で、すでにシナリオはインターネットを通じて、受講生に配布してあった。当初「モノローグ」というタイトルだったが、「洋梨のうた」に変えた。
24歳のウエブデザイナーの清子という女性が主人公で、彼女は中学生のころより「女性器がしゃべりだす」という「特異体質」をもっている。
清子の処女喪失体験を、回想をまじえて描いた作で、意欲作といえる。
若い男性の性器が本人の意志とかかわりなく、反応して勃起するという「生理作用」が、女性にもあるのだということを、松崎嬢は何人かの女性にリサーチして調べたという。
性というものの、不可思議さ、まがまがしさに、彼女なりの視点で迫っていこうとするもので、 これまで小説などでは、女性器がしゃべる……といった作はあるようだが、映像で表現した作については、ぼくは寡聞にして知らない。(ポルノや官能映画ではあるかもしれないが)。
松崎嬢は自ら企画し、シナリオを書き、いろいろな人間をまきこんで、制作や監督までこなして、ともかく30分の作品を作り上げた。
ロケハンやキャスティング等々で、いろいろ苦労もしたようだが、学生時代に映画をつくるなど、夢のまた夢であったぼくらの世代からは「時代は変わった」と思わざるをえない。
もちろん、フィルムではなく、デジタルのビデオカメラをつかったもので、照明や録音、整音、記録、助監督などもいて、かなり「本格的」な制作体制である。
それでかかった費用は10万であるという。
人の協力が得られれば、それだけで映画がつくれる時代になったのである。
近々、30分の作品として仕上がり、学内で公開するとのことだが、教室でも参考上映するといいと、すすめた。
彼女はすでに、商業用映画の美術スタッフ助手として、何本かじっさいの映画作りの現場を踏んでいるので、「まったくの素人」ではない。しかし、22歳で、周囲を説得し、まきこみ、人を動かし、自分ののぞむ方向で作品をまとめあげた。その経験は、今後の人生の豊かな土壌となるだろう。
高校のころから、映像作家を目指していたとのことで、意欲と積極性、行動力、そして独創性は、大いに買えると思った。
「いろいろと大変なことがあったが、現場で出演者たちと議論しながら演出をすることに、一種の陶酔感を覚えた」とのことだ。
題材が女性器なので、一歩間違えば下品になってしまうのだが、彼女の人柄なのだろう、鼻や口を語るように淡々と性器について語るので、嫌みな感じがまったくない。
「女性器」が語る……というのを、映像でどう説得力ある表現にもっていったか、30分の作品を見てから、感想や批評を加えたいが、シナリオ演習の前期レポートからシナリオを起こし、それを作品として結実するまでのプロセスに、出席の学生たちは接することができたわけで、大いに刺激になり、勉強になったにちがいない。
少数ながら、こういう意欲のある若者を目の前にすると、日本の将来を悲観的に考えてしまうぼくなど、少し安心する。
当然、表現に幼いところはあり、批判するのは簡単だが、出始めた芽がうまくのびて、花をさかせるよう、温かく見守りたいものだ。適切なアドバイスや、ときに厳しい批評を加えることも必要になっていくだろうが。
二文は「夜間部」なので、必ずしも若い学生ばかりではない。他の「中年の生徒」などもまじえ、大学の近くの酒場で、とりあえず「祝杯」をあげた。
シナリオの撮影稿を、当ホームページの「招待作」に、いずれ掲載する予定です。
「映像作家」としての松崎香南子嬢の今後に、期待したい。