おごれる者久しからず
2004年 10月 29日
政官財の癒着といおうか、不祥事といおうか、普通の人から見たら「強欲」としかいいようのない「所業」を行ってきた人達の失脚が相次いでいる。
日本一の発行部数を誇る読売新聞社の渡辺恒雄元社長や、西武鉄道の総帥といわれた堤義明氏、元総理の橋本龍太郎氏……等々。
故人にさかのぼれば、ロッキード事件で失脚した田中角栄元首相、盟友の小佐野賢治国際興業社長……等々、晩節をけがした「元権力者」「元実力者」は多い。
まだ背後で「院政」をしいている人もいるようだが、この人たちに共通しているのは、「金銭欲」「権力欲」が並はずれて強力なことだ。中には強欲としか形容できない個性の持ち主がいる。法の網をかいくぐり、権力にものをいわせ、大金を己のものとし、自らの権勢を誇る。
権力の「うまみ」を一旦知った者にとって、その座は陶酔感さえ覚えるほど座り心地のよいものなのだろう。多くの人間の運命を、おのれの意志や気まぐれで、どうにでも左右できる。つまり、多くの人間の生殺与奪を握っていることに、生き甲斐を感じている人たちなのだと思う。
その類の人間が、社会に幸福をもたらすこともあるが、恩恵に浴する人間をのぞいて、多くの人にとっては概して「困った」存在である。
世の中、よくしたもので、この種の強欲の持ち主は、人一倍強い「欲望」のために成功してきたのだが、逆にその強欲さ故につまずき、失脚していく。
ローマ帝国がなぜ衰亡したか。その要因は、帝国を隆盛に導いた要素のなかにある、とは歴史家の指摘するところだ。
個人の人間にも、これはあてはまるようだ。その人を「出世」「成功」に導いた要素が、いつのまにか阻害要因となって、その人を滅ぼすのある。
「節度」とか「ほどほどに」といった日本人が伝統的に美徳としてきたことは、彼らにはどうも無縁のようだ。
これが芸術やスポーツの分野なら、「ほどほど」や「適度」ではなく、全力で頑張り、群を抜いた成果をあげても、人の迷惑にはならない。例えば100メートル競走で、10秒を切り、さらに「欲」をだして9秒を切ろうと頑張り、これを実現したとして、彼の行為は多くの人間に感動と勇気をあたえることで、他人を不幸にしたりしない。
絵や音楽、文学、映画の世界なども、同様である。よりよきものを目指して、功名心や虚栄心や自己顕示からであれ、頑張ってある高みに達する。それは多くの人間に望ましいことだ。
一方、土地とか具体的な富となると、そうはいかない。なにぶんにも限られている対象なので、強欲な人が独り占めすれば、当然、その影響が他の人のところにおよび、人を不幸に陥れ勝ちだ。
人間は幸か不幸か、他の生物とちがって、並はずれて欲望が強い生き物である。文明化がすすみ、最低限生きるために費やす時間やエネルギーは、昔に比べはるかに少なくてすむようになっている。
となると、ありあまった欲望のエネルギーを、どこでどう発散させるかが問題となる。
限られた資源しかない地球である。60億を超えた人間の欲望が物にむかったら、富の奪い合いになり、摩擦がおき、やがて戦いになり、究極的には「戦争」となる。
そこで、芸術やスポーツの出番である。
芸術とスポーツは、過剰な欲望、エネルギーをうまく吸収して、醜い争いや戦いを回避させる。人間がつくりだした見事な装置であると思う。
この世を、すみよくさせるには、この二つの分野を充実させるしかない。
しかし、政官財のリーダー層で、このことを心の底から信じ、汗をかいている人は、ほとんど皆無に近い。
今、晩節をけがしつつある「権力者」たちが、もう少しこの分野に意を注いでくれたらいいのだが、悲しいことに彼らは、この分野をも、権力、金力を醸成する対象としか見ていない。つまり、金儲けの対象であり、おのれの権力欲を満たすための手段でしかない。
彼らは常に人間を「利用すべき対象」としか見ていないようだ。悲しいことに、そう割り切って功利的に行動できる人間が、「成功者」になっていく。
おそらく、これからも、やがて晩節をけがすことになる強欲な「成功者」が生まれてくるだろう。30半ばにして、大金を手にいれ、「強欲」が顔に書いてあるような情報産業の社長など、予備軍はすでに少なからずいる。
彼らのほとんどは、世の中を「金儲け」の対象としてしか見ていない。そうでないタイプの人間をリーダーに期待するのは、木に登って魚をもとめるようなことなのだろうか。