インターネットの光と影
2004年 11月 03日
仮眠して早朝4時ごろ起き、パソコンを起動したところ、購読しているメールマガジンのひとつで、情報関係のニュースやコメントを主に掲載しているものに、過日バグダッドで人質になり殺害された香田証生さんの殺害シーンが載っているとの情報。
あまり見たくない映像だが、現実にどのように殺害されたのか、知っておきたいと思い、URLをクリックした。
数分の映像であったが、衝撃的なものだった。黒覆面をした3人の男の前に、香田さんが座らされていた。3人がアラビア語で何事かをしゃべると香田さんの髪の毛をつかみ、左側の男がナイフを取り出し、じつに無造作に首を切り落としていく。
香田さんはまったく抵抗らしい抵抗もしなかった。黒覆面の男たちはアルカイダ系の「戦士」であるということだが、まるでモンゴルの遊牧民が飼っていた羊を食用のために殺すように、あっさりと、手慣れた仕草で切り取り、最後は血のしたたった首を手で高くかかげた。
香田さんの首なしの体はアメリカ国旗の上に横たわっており、体の上に切り落とされたばかりの首……。
こんなことが21世紀の世の中に現実に起こっている、という自体に衝撃を受け慄然とした。同時に、更に怖いと思ったのは、パソコンさえもっていればいつでも誰でもが、こんな衝撃映像を居ながらにして見ることができるという現実だ。
そのサイトは英語のサイトで、左側に小さいながら裸の女が股をひろげている写真があり、どうやらエロを売り物にしているサイトであった。
気持ちが悪くなって、ぼくはすぐに閉じてしまったが、メルマガを配信している元公安調査庁の職員氏によると、この衝撃的映像がインターネット上にかなり出回っているらしい。
テレビではまったく放送されない映像が、こうして国境を越えて、どこの国にも流れていく。
北朝鮮など情報を閉鎖している国は別だが、普通の国の国民なら、ほとんど無料で見ることができる。
現実に起こっていることであり、創作とかねつ造ではない。現実を「直視する」という意味で、どんなに衝撃的ではあっても、情報を封鎖することはできない、現実を現実として知っておくことが必要……という意見があるかもしれないが、この映像を目にして、つくづく考えさせられてしまった。
交通事故や災害の現場など傷ましい出来事の現場を、テレビニュースは時々刻々と伝え、そこにこそテレビの速報性があり、意味があるのだが、そこには善し悪しは別にして、テレビ局は制作者の「取捨選択」があり、規制やブレーキがあった。
一方、インターネット上では、規制らしいものもなく、生の情報がとびかい、それを誰でもが、いつでも簡単に見ることができる。
じっさい、パソコンを操作できれば、首切り映像は子供でも見ることができる。
現在、インターネットの世界は、交通ルールのない道路に人や車が勝手に行き来しているようなもので、個人への誹謗中傷はもちろん、ねつ造した情報や、一方的な作為に満ちた宣伝、PRなどが行き交っている。
明らかに「嘘」とわかる情報は、まだ害が少ないが、「真実」や「事実」が8割ほどあると、あとの2割ほどがたとえ嘘八百であったとしても、受け取る側はそれを信じてしまう事例も多い。
最近ではマスコミの若手の記者など、自分の足で歩き、対象を取材して記事を書くのではなく、お手軽にインターネットで検索して記事を書くというケースもあると聞く。
社会経験の浅い人間が、インターネット上を飛びかう虚実いりまじった情報を無批判にとりいれ、記事等を書き発信しているとしたら、大いに問題である。
根も葉もない噂というものがある。
当初は、誰にでもわかる「嘘」の噂だが、恐ろしいことに、その噂が何人かを経由して伝わっていくうち次第に「事実」になっていく。われわれの身近な噂話などでも、しばしば経験することである。
噂が噂を呼ぶうち、次第にそれが「事実」「真実」になって、第一次の情報を知らない人間の間に定着していく。
世間話でも、この程度であるから、意識的に情報操作や宣伝などを行おうとする人間なり組織なりが、噂の機能をうまく使えば、世論をある方向にもっていくこともできる。
とくに膨大な人間が簡単にアクセスできるインターネットである。
新聞や雑誌等では、記者や編集者、校閲者等々のチェック機能が働き、ガセネタや嘘を排除する機能が働くが、インターネット上では誰でもが発言、発信できるので、ブレーキが働かない。
しかも、他人の意見や映像を取り込み、加工をすることも容易なので、「一部の嘘を意識的にまじえた事実、真実」が、流れていることも多いのではないか。
受け取る側に、一定の社会常識や理性が備わっている場合は、嘘と真実を腑分けしやすいが、社会体験も浅く、知識も少ない子供や少年などには、白紙にインクがすいこまれていくように、虚実とりまぜた情報がはいっていき、それが彼らの世界観を醸成する元になったりする。
インターネットは確かに便利で、これが人と人ばかりでなく、人と組織のあり方をも変えていくにちがいない。
良い方向に作用する場合も多いが、光があれが影があるの言葉通り、悪用されると、その影響もまた大きい。
早急に、今のようなルールもなにもない世界に、一定のルールというかモラルというブレーキをかける必要があると思うのだが、いざ実行となると、これが極めてむずかしい。
事は日本国内の問題ではないからである。
世界にはいろいろな文化や伝統があり、いろいろな価値観、美意識、考え方の違いがある。 宗教の違いひとつとっても、正反対の価値観をもつものがあり、統一したルールをつくれるものではない。
インターネット上のルールをつくったとして、それを誰が統制したり、規制したりするかである。
日本でも「個人情報保護法」が成立し、来年春には施行されることになっているが、これなどその情報がニュースであるかないかを、基本的に判断し、規制の網をかぶせるのは、行政官、つまり役人である。
彼らの恣意的な判断や、拡大解釈がはいりこまないという保証はない。
言論の自由という問題と密接にからんでいるだけに、規制や統制はできるだけ排除していかなければならないのだが、だからといって、今のように「なんでもあり」というのも、困ったことである。
個人への中傷、誹謗に対しては名誉毀損等の法が働くにしても、外国から国境を越えてはいってくる情報に対して日本国の法律など無力である。
情報はすでに経済などと同様、ボーダレス化の中、縦横無尽に行き交っており、そんな情報の洪水のなか、なにが真実で、なにが真実でないのか、とうとうと押し寄せる濁流にのみこまれ、見えなくなっている。
情報が人の判断や考え方に、大きな影響を与えるのである。
この問題ひとつとっても、現在、人類は大変なところにきていることを実感しないわけにはいかない。
よほど鈍感でおめでたい人間でない限り、未来は危機にさらされている、と考えているに違いない。
多くの人が危機感を抱きながら、さまざまな「文明の利器」が開発され、危機の回避策が追いついていかない。21世紀とは、そういう時代である。