コラム


by katorishu
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千倉までの「旅」

11月15日(月)
 12日の金曜日。作曲家の高橋如安さんと、千葉県の千倉に行く。東京駅発9時半の特急「さざなみ」に乗るつもりであったが、京葉線のホームがひどく離れたところにあり、そこまで歩いて15分かかると駅員にいわれ、急いだが結局乗れなかった。前夜来の豪雨でダイヤもかなり乱れていた。
 30分以上前に「銀の鈴」の近くで待ち合わせ、時間があるのでコーヒーを飲んでいたのだが、同じ駅構内で、そんなにも歩く必要があるとは。東京駅も肥大化したものである。
 おそらくディズニーランドがができ、湘南方面から房総に直接乗り入れるようにしたため、そんな無理な構造になったのだろう。
 房総方面はじつに久しぶりに出かけたので、東京駅がこんなに変化をしているとは知らなかった。

 東京に住んでいる人間からすると、かえって不便になってしまった、と少々腹がたった。
 仕方なしに鈍行で延々4時間半もかけて千倉の先の「千歳」という無人駅に向かった。
 如安さんの主宰するNPO「アバ音楽の森」で来年2月に予定されているハンセン病ミュージカルの取材でいったのである。
 千倉に、オペラ歌手兼演出家の飯村氏の別荘があり、知り合いに、ハンセン病療養所に勤務していたひとがいるとのことなので、お話にうかがった。

 結局、飯村氏の別荘に着いたのは、午後の1時半ごろ。夫人で舞台美術家の山本淑子氏のほか、森田氏ご夫妻が待ちくたびれていた。
 森田氏は以前、ハンセン病の療養所で2年ほどだが職員として勤務されていた経験があり、それでお話を聞こうということになった。
 森田氏は、リタイアーをしたあと、東京を引き払い千倉に移り住んで10年ほど。直木賞を受賞された作家の村山有佳氏(この先の鴨川在住)のご両親でもあり、その後、日本医師会で健康保険の作成にかかわった方で、それにまつわる興味深い話もうかがった。

 さらに、地元に長く住んでいる人たちと、どうつきあい折り合っていくか……興味深い話をうかがった。地元に若い人はすくなく、年配者が多い。彼らは地元を愛しており、よそ者に対して、目に見えない壁をつくっている。
 しかし、この地を、ついの住処と決めたからには、土地に溶け込んで暮らさないといけない。そのへんの生活の知恵なども、興味深かった。

 地元の漁港であがった新鮮な魚の刺身や、飯村氏手作りのイカのトマトソース煮など、いろいろなご馳走のほか、シャンパンなどもでて、すっかりご馳走になってしまった。
 途中で、近くにある「花の谷クリニック」の院長の伊藤真美先生なども見えた。先生は、お父様手作りのオリーブの漬け物なども持参、現代医療の問題点などに話題がうつり、瞬く間に数時間がすぎていった。

 暗くなってから花の谷クリニックに伺った。末期癌患者などの緩和ケア医療をする、ホスピスのある個人診療所で、まだ40台半ばとお見受けする伊藤先生が独力でつくった診療所である。
 いわゆる「ホスピス」らしくない「ホスピス」を目指したとかで、随所に、心が癒される装置がほどこされている。
 玄関をはいってすぎ右手の「ホール」は食堂をかねているが、グランドピアノが置いてあり、そのままコンサート・ホールにもなる。今月の23日、飯村氏がここで患者や地域の住民のためのコンサートを開くとのこと。

 さらにユニークなのは、別棟に「バー」があり、そこでは患者さんはもちろん、近所の人たちがお酒を飲んだりして、交流をはかれる。
 昭和の初期にたてられた民家を、そのまま「バー」というより和風居酒屋にあてたもので畳敷きの広い部屋の隅には、以前ここに住んでいた人の位牌なども安置されている。
 ここで、以前、六本木のバーで一時働いていたことのある診療所員が「スペシャル・ドリンク」をつくってくれた。マティニのような飲み物。
 花の谷クリニックについては、伊藤先生の著書のほか「花の谷の人びと」(土本亜理子著)がでている。

 花の谷という名の由来について、案内パンフにはこう記してある。
『1931年、ある登山家がヒマラヤ山中で迷い、数百種類の高山植物が咲き乱れる谷を見つけました。彼はその場所を「花の谷」と名付けました。
 そこはまた、インド神話の神ハヌマーンが、万病の薬草を探し出した場所として、語り伝えられれいます』

 院長の伊藤先生の医者としての志や理念に共鳴された千倉の漁師が土地を提供してくれて、10年ほど前に開業したクリニックということで、看護師さんや所員のみなさんは、とっても感じが良く、「人生最後」の場として過ごすには、なかなかの場所である。冗談ながら、「いずれ、ぼくもここで」といった話もでた。

 病棟をはさんだ中庭を見せていただいたが、レンガじきに草花の花壇があり、ちょっとした空間で夜間の照明もある。ここで、野外コンサートや野外芝居、さらには詩などの朗読も出来そうであった。病棟の接して広いベランダがあり、そこが観客席になる。
 来年、なにかここでコンサートや芝居などをやろう……ということで意見が一致した。

 岐路は最終の鈍行にぎりぎり間に合い、結局、東京駅に着いたとき、11時40分をまわっていたが、有意義な「旅」であり、いい息抜きになった。
 考えてみれば、今年は一度大阪にいった以外、旅行らしい旅行もせず、ほとんど都内で過ごしており、これが初めての「旅」であった。
 鈍行の列車などにのって、単線で通過待ちをしたりしていると、いろいろと物思いにひたったりすることも多い。なにより、その土地ならではの人に接して、いろいろ歓談できるのが嬉しく、適度の刺激になる。
 もう少し旅をしないといけない、と改めて思ったことだった。
 
by katorishu | 2004-11-15 10:52